日曜野外坐禅&随聞記の勉強会㊳

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チャット:

00:04:11    Minoda Hd:    おはようございます。9時ごろまで、画面、音声OFFで参加します。よろしくお願いいたします。
00:04:39    火童:    よろしくお願いいたします。
00:08:35    IMAZAI Kei-ichiro:    もう少し大丈夫(笑)
00:12:11    今橋 勇蔵:    声が聞こえないですね
00:12:15    火童:    音が切れ切れです
00:12:27    IMAZAI Kei-ichiro:    切れ切れです
00:13:55    IMAZAI Kei-ichiro:    安泰寺の皆さんは結構この勉強会を楽しみに見ているそうですよ。
00:22:18    IMAZAI Kei-ichiro:    前回とどのように違いましたか?
00:25:46    IMAZAI Kei-ichiro:    痛い、痛い、痛い、痛い、痛い(笑)
00:28:21    火童:    マイクというより通信の問題ですね多分
00:30:17    火童:    声は聞こえています
00:31:48    火童:    じゃあ再開まで坐禅しよう
00:33:36    島 雄(Yu Shima):    そうしまよう。画像は失礼します。
00:49:33    火童:    切れてしまいましたね
00:50:17    島 雄(Yu Shima):    悪魔が邪魔してる。
00:51:48    火童:    仏教でも悪魔はマーラとかパーピマンとか出てきますが、仏教で悪魔というとなんですかね
01:05:43    火童:    3番目のツイートはウィトゲンシュタイン
01:07:37    火童:    蜘蛛の糸みたいですね
01:16:28    火童:    百千万発という言葉からすると、発菩提心はずっと発しているというよりマシンガンのように連発する感じがしますね。
01:29:31    火童:    画像が横に倒れています
01:36:38    火童:    竿を手放したら今度はどうしますか。中務さんの図のように新しい竿を登ることも、まず手放さないとできないですね。はなてばてにみてり?
01:57:33    Minoda Hd:    本願寺一向宗として強大な軍事教団に堕したことは、他力を考える上でどうしても引っかかります。
01:59:20    iPhone:    Niebuhr
02:09:13    火童:    苦があるままで救われている、苦があるままで苦の滅もある?
02:10:16    島 雄(Yu Shima):    苦も仏性、といえますか?
02:12:54    火童:    吉本に送ってみよう
02:13:36    mori:    ありがとうございました。

小雨の流転会(坐禅&フリートーク)

チャット記録:

00:45:46    IMAZAI Kei-ichiro:    バガヴァットギーターというインドの叙事詩があります。アルジュナという王子様が親族と戦わなければならない時に、その不道徳に悩みます。そこで神が与えた答えは、なすべきことをなせということでした。ネルケ老師なら、ナチス時代のドイツ人になっては行けないと言いそうな話ですが、僕はこの話を生き方の指針としています。いい悪いも、立場や時代が変われば全て相対化されると思うからです。ただ、こうしたことを禅と結びつけて考えると、イマココ、ということであると思っています。今この瞬間、なすべきことをなす、ただし、我に囚われてせき立てられないようにしながら、瞬間瞬間やるべきことをやり続けるのが在家の前ではないかと思っています。なんだか生意気を言いまして、失礼いたしました。
00:45:48    oonishi:    その女の子から仏としての遊びとしてお辞儀という行為が生じたのかもしれませんね。とてもほっこりしました。
01:00:37    IMAZAI Kei-ichiro:    ズルをしたり人を傷つけたりせずに、ゲームをしたら良いということですが、ズルをしたり、こちらを傷つけようとする人に対してどうしたら良いでしょうか。
01:02:48    火童:    その人は悪業を積んでしまっているので、やめさせるのも相手のためになりますよね。
01:03:14    IMAZAI Kei-ichiro:    なるほど、業ですか。
01:04:47    IMAZAI Kei-ichiro:    やめてくれれば良いけれど、やめてくれないんですよね(笑)
01:05:23    火童:    笑
01:07:36    IMAZAI Kei-ichiro:    息子ならいいですが、狂信的な信者は信念を持って人を傷つけ、殺そうとしますよね。悪とは何か…
01:08:41    mori:    会社の上司には言えないです(笑)
01:09:28    IMAZAI Kei-ichiro:    怒りを持たずに首を刎ねれば良いですかね?
01:10:01    火童:    爆笑
01:11:11    IMAZAI Kei-ichiro:    正義を確信して向かってくる敵を、遊びの心で撃ち殺せばいいのでしょうか。
01:19:33    IMAZAI Kei-ichiro:    あまり遊びを強調すると、まさに遊びでやるいじめを止められなくなるような気もします。
01:21:56    IMAZAI Kei-ichiro:    やはり天下布武しないでしょうか。
01:23:35    IMAZAI Kei-ichiro:    大金持ちが罰金を払えば、いくら駐車違反しても良いかというとどうも違うように思います。美しない。
01:35:49    IMAZAI Kei-ichiro:    問を立てるから私が生じるということでしょうか。
01:37:09    IMAZAI Kei-ichiro:    問をたてる前に私は存在しないような気がします。私が生じた後から振り返って不思議を感じるということでしょうか。
01:39:39    IMAZAI Kei-ichiro:    超越をちょうえs
01:40:06    IMAZAI Kei-ichiro:    超越を超越と見做せる根拠はあるでしょうか。
01:45:26    火童:    円成実性
01:45:47    火童:    依他起性
01:49:54    IMAZAI Kei-ichiro:    <私>を無明とし、一つだと感じるのが、ツルで繋がったカボチャでしょうか、梵我一如でしょうか。
01:50:19    IMAZAI Kei-ichiro:    ありがとうございました。安泰寺行ってきます。
01:51:09    火童:    尼僧さま誕生ですね
01:51:50    IMAZAI Kei-ichiro:    おめでとうございます。
01:52:02    Masumi Sakikawa:    おめでとうございます。
01:52:26    mori:    あおめでとうございます。
01:52:39    mori:    ありがとうございました。

典座教訓④

典座教訓  (https://eiheizen.jimdofree.com/%E5%85%B8%E5%BA%A7%E6%95%99%E8%A8%93/

   觀音導利興聖寶林禪寺比丘道元

米を淘り菜等を調へ、自らの手にて親しく見、精勤誠心にして作せ。一念も踈怠緩慢にし、一事を管看かんかんし、一事をも管看すべからず。

功徳海中に一滴も也た譲ること莫く、善根ぜんごん山上、一塵も亦た積む可きか。

『禪苑清規』に云く、「六味精せず、三徳給せずば、典座の衆に奉する所以ゆえんに非ず」と。

先づ米を看て便ち砂を看る。先づ砂を看て便ち米を看る。審細に看來り看去りて、放心すべからず。自然に三徳圓滿し、六味倶に備る。

雪峰せっぽう、洞山に在りて典座と作る。一日、米を淘る次で、洞山問ふ。

「砂を淘り去りて米か、米を淘り去りて砂か」。

峰云く、「砂米一時に去る」。

洞山云く、「大衆、箇の什麼をか喫す」。

峰、盆を覆却ふくきゃくす。

山云く、「子、佗後、別に人に見まみえ去ること在らん」と。

上古有道の高士、手して自ら精し至り、之れを修すこと此の如し。後來の晩進、之れを怠慢すべきや。先來云ふ、「典座は絆ばんを以て道心となす」と。米砂誤りて淘り去ること有るが如きは、自ら手して檢點す。

『清規』に云く、「造食の時は須く親く自ら照顧し、自然に精潔となる」と。其の淘米とうべいの白水を取り、亦た虚く棄ず。古來、漉白水嚢ろうはくすいのうを置く。粥米と水とを辨じ、鍋に納れ了り心を留めて護持し、老鼠ろうそ等をして觸誤し、竝に諸色の閑人の見觸せしむること莫れ。

粥時の菜を調へ、次に今日齋時の所用の飯羮はんこう等を打併たへいす。盤桶ばんつう、並に什物調度し、精誠浄潔に洗灌し、彼此ひし、高處に安ずべきは高處に安じ、低處に安ずべきは低處に安ず。高處は高平、低處は低平。梜杓きょうしゃく等の類、一切の物色、一等に打併し、眞心に物を鑑し、輕手に取放し、然る後に、明日の齋料を理會りえす。先づ米裏に蟲有るを擇び、緑豆、糠塵、砂石等、精誠に擇び了る。米を擇び菜等を擇ぶ時、行者あんじゃ諷經し竈公そうこうに囘向す。

次に菜羮さいこうを擇び物料を調辨す。庫司くすに隨て打得す所の物料は、多少を論ぜず、麤細そさいを管せず、唯だ是れ精誠に辨備するのみ。切に忌む、色を作し口に料物の多少を説くことを。

竟日通夜ひねもすよもすがら、物來りて心に在り、心歸して物に在り、一等に佗と精勤辨道す。

 

A: 舒州浮山の法遠禪師と、越州天衣山の義懷禪師と衆に在る時、特に往いて參扣(さんこう)す。正に雪寒に値ふ。省訶罵驅逐す。以至(しかのみならず)水を將つて旦過に溌ぐ、衣服皆濕ふ。其の佗の僧は皆怒つて去る。唯だ遠と懷とは敷具を併疊し衣を整へ、復た旦過の中に坐す。省、到つて呵して曰く、儞更に去らずんば、我儞を打たん。遠、近前して云く、某二人、數千里特に來つて和尚の禪に參ず、豈に一杓の水の溌ぐを以て之れ便ち去らんや、若し打殺せるるとも也(ま)た去らじ。省笑つて云く、儞兩箇は參禪を要す、却(かへ)り去つて掛搭せよと。續で遠を請して典座に充つ。衆其の枯淡に苦しむ。

省偶(たまたま)莊に出づ、遠鑰匙(やくし)を窃み油麺を取り、五味粥を作つて熟す。省忽ち歸つて赴堂す。粥罷堂外に坐し、典座を請しむ。遠至る。省云く、實に油麺を取つて煮粥すや。

情(まこと)なり。願くは乞ふ和尚責罰せよ。省所直(しよじき)を算し衣鉢を估り還し訖らしめ、打つこと三十拄杖して、院を出だす。

遠市中に舍し、道友に託して解免(げめん)せんとす。省允さず。又曰く、若し歸ることを容さずんば、祇(ただ)乞ふ衆に隨つて入室せんと。省亦允さず。省一日街に出づる次で、遠の獨り旅邸の前に立つを見て、乃ち云く、此れは是れ院門の房廊なり、儞此に在つて住すること許多の時ぞ。曾て租錢すや否や。所缺を計りて追取せしむ。遠難ずる色無し。市に持鉢し、錢と化して之を送る。省又一日街に出で之が持鉢するを見る。歸つて衆の爲に曰く、遠は眞に參禪に意有りと。遂に其を呼んで歸らしむ。

中に就いて遠典座の心操、學せずんばあるべからず、千載の一遇なり。賢不肖共に及び難き者なり。然れども典座若し遠公の志氣を經ずんば、學道爭(いかでか)佛祖の堂奧に逮得する者ならんや。上來の典座は皆是れ佛海の龍象、祖域の偉人なり。今是の如き人を求むるに、世界に得べからず。『知事清規』)

B: 石霜山慶諸禪師、潙山の法會に抵つて米頭と爲る。一日、師、米寮内に在つて米を篩(ふる)ふ。潙山云く、施主物、抛撒すること莫れ。霜云く、抛撒せず。潙山、地上に於いて一粒を拾得して云く、汝抛撒せずと道ふ、這箇は是れ什麼の處よりか得來る。師、無對。潙山又云く、這の一粒子を欺くこと莫れ、百千粒は這の一粒より生ず。師曰く、百千粒は這の一粒より生ず、未審(いぶかし)這の一粒什麼の處より生ず。潙山、呵呵大笑して方丈に歸る。晩後上堂して云く、大衆米裏に蟲有り。『知事清規』)

C: 君見ずや 絶学無為の閑道人 妄想を除かず真を求めず 無明の実性即仏性 幻化の空身即法身『証道歌』)

D: また四枚の般若あり。苦・集・滅・道なり。『正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜』)

E:  諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。『正法眼蔵 現成公案』)

坐禅&随聞記37

資料:https://drive.google.com/file/d/1aJ04bRK2TvS97Njyv2dNMv79SBD65Yt-/view?usp=sharing

チャット記録:

08:39:02     From Kei-ichiro Imazai : 座禅を始める人にとってとても重要なことだと思います。一方で、最終的には自分が他力と思おうが自力と思おうが、それこそどうてもよくなるのではないでしょうか。本人がどういうつもりで坐ろうが、坐り続けていれば同じことのように思います。
08:48:05     From Kei-ichiro Imazai : 確かに、正身端坐を「ねらう」というからには自力のはからいですね。一種の「神下ろし」でねらってるうちに、自然に「坐禅が私をしている」という状態になるということでしょうか。もちろん、トランスするようなことではありませんが。
08:58:18     From Kei-ichiro Imazai : 藤田老師の身体ベースの坐禅というのは、坐るという動作があまりに簡単な動作なのでわかりにくいのではないでしょうか。むしろヨガの頭立ちや藤田老師の綱渡りのようなことをすれば、よくわかるのではないでしょうか。やろうと思った時点では自分のはからいですが、バランスが取れて安定した感じがしているときには、自力よりもバランスという自分ではない作用がその体勢を成り立たせていることを明確に感じさせてくれる、あのことではないかと思います。
09:06:30     From Masumi Sakikawa : 今の話ですが、ボアダムと悟りがすこし似ているのではないでしょうか?
09:10:40     From Kei-ichiro Imazai : 寂静を涅槃と感じるか、退屈と捉えるか、かなりシンプルで明快な線引きのように思います。
09:17:46     From Zhang Xuan : Thanks for the comment. It is a good point about boredom and enlightenment. I think maybe a state where there is no stress can feel like boredom sometimes, but it is still a good state. I think I had this state more often as a child, but remember being bored more often.
09:20:57     From Zhang Xuan : I found the Ajahn Chah quote:
09:21:11     From Zhang Xuan : When we come to see impermanence, unsatisfactoriness and not-self in ourselves, in this body and mind, in this world, then we'll find that a kind of boredom will arise. This isn't the everyday boredom that makes us feel like not wanting to know or see or say anything, or not wanting to have anything to do with anybody at all. That isn't real boredom, it still has attachment, we still don't understand. We still have feelings of envy and resentment and are still clinging to the things which cause us suffering.
09:21:21     From Zhang Xuan : The kind of boredom which the Buddha talked about is a condition without anger or lust. It arises out of seeing everything as impermanent. When pleasant feeling arises in our mind, we see that it isn't lasting. This is the kind of boredom we have. We call it nibbidā or disenchantment. That means that it's far from sensual craving and passion. We see nothing as being worthy of desire. Whether or not things accord with our likes and dislikes, it doesn't matter to us, we don't identify with them. We don't give them any special value.
09:21:26     From Kei-ichiro Imazai : ヴィパッサナーと坐禅は違うもののように見えて、最終的に目指すのは、結局、「無我」だという点では一致しているように思います。ただ、ヴィパッサナーの最終段階の「悟り」ではただ生きているだけで、何も感じない、考えない状態で「無我」を目指すのに対し、禅では諸法実相の中に自分もあって、世界と自分の区別がなくなる状態で「無我」を目指すのではないでしょうか。ネルケ老師がしばしばおっしゃる「風景」という言葉が大変重要なヒントだと思います。
09:25:46     From Kei-ichiro Imazai : サキカワサン、面白いご指摘だと思います。
09:26:19     From Kei-ichiro Imazai : 実際、現代の著名なお坊さんは皆高学歴でインテリですよね。
09:27:55     From Kei-ichiro Imazai : そして、ここにおられる方も、皆さん教養と見識のしっかりした方ばかりですよね。
09:33:09     From Kei-ichiro Imazai : 衆生救済を標榜する禅の課題だと思います。坐禅大乗仏教の皮を被った小乗仏教になりがちなのではないでしょうか。それを穴埋めするために、祈祷してあげるとか、お葬式してあげるというのは根本的な解決とは言えないのではないでしょうか。少しきつい言い方になりました。すみません。
09:40:39     From Kei-ichiro Imazai : 以前、スイミング仲間のおじさんのが「毎日がベスト」と言いなが泳いでいました。「体力落ちる一方だから」だそうです。坐禅の今ここを感じさせられました。
09:47:47     From Kei-ichiro Imazai : 悟った人にとっての慈悲とは、趣味かもしれないと思います。一方で、無我の人にとって慈悲以外にロクなな楽しみがないのではないかとも思っています(笑)。
09:48:48     From Kei-ichiro Imazai : おそらく、小乗であればチャーのようになるかと思います。
09:53:09     From Kei-ichiro Imazai : 止と観の違いは、Default mode networkの働き具合の違いで決まるように思います。
09:58:19     From Kei-ichiro Imazai : 止(サマタ)は特定の対象に主体的に注意集中し、観(ヴィパッサナー)は分散注意であると思います。両者は注意の向け方の違いであって、ヴィパッサナーと坐禅が同じ分散注意であっても、その後の認知的処理が一緒だとは限らないのではないでしょうか。
10:04:38     From Zhang Xuan : I have a deadline for a paper on Oct 31 before the sesshin so it is difficult to present now.
10:05:50     From mori : ありがとうございました。
10:05:56     From Kei-ichiro Imazai : ありがとうございました

坐禅&勉強会(『正法眼蔵・随聞記』㊱)

資料:https://drive.google.com/file/d/1aJ04bRK2TvS97Njyv2dNMv79SBD65Yt-/view?usp=sharing

チャット記録:

00:31:21 ネルケ 無方: 君見ずや 絶学無為の閑道人、妄想を除かず真を求めず。

00:50:08 Kei-ichiro Imazai: STHIRA SUKHAM ASANAM

01:01:54 mori: 坐禅は未経験のため、とても勉強になりました。 もっと拝聴したいのですが、 すみません、本日は途中退場させていただきます。 ありがとうございました。

01:12:53 Kei-ichiro Imazai: 「何にもならん」は、悪い意味での自信をつけないことなのかと思いました。

01:31:42 Kei-ichiro Imazai: ありがとうございました

本の紹介:『「現成公按」を現成する: 『正法眼蔵』を開く鍵』

奧村老師について:https://ja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A5%25A5%25E6%259D%2591%25E6%25AD%25A3%25E5%258D%259

奧村正博主催の「三心禅コミュニティ」通信:http://www.amy.hi-ho.ne.jp/ryutaro-suzuki/

The Dogen Institute (英語) https://dogeninstitute.wordpress.com

翻訳者である宮川啓之老師のHP:https://tentoku-ji.com/blog-category/diary/

YouTubeで見る老師の動画:

奧村葉子監督(http://www.yokookumura.com/bio.html)の動画: