ヨガ、坐禅&随聞記(41)

資料:https://drive.google.com/file/d/1hNZ0wwEKeXNtbIqTQhA0OQImTnxXOGFm/view?usp=sharing

チャット記録:

00:16:21 おはようございます。

01:59:10 日本は社長がトイレ掃除をします。

01:59:12 https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1910/18/news023.html

01:59:56 社長自らお店でゴシゴシ ローソンがトイレ掃除に注力している理由

02:10:27 ありがとうございました。

張萱さんにインタビュー「ヨガと坐禅について」

張萱さん( https://www.youtube.com/channel/UC18kjt2kGW0eDH9x5_PiOJg )について:https://xuan.yoga/cho/

張萱さん@安泰寺 (2021年11月) https://youtu.be/UXtuhsYOEzE

安泰寺 夏の禅合宿 https://youtu.be/FmxzC7i6kN4

大阪城公園 ヨガと坐禅 https://youtu.be/lG19Qj77W-0

Let's go find Osaka Castle Park Zazen & Yoga https://youtu.be/s-o3lHFB6js

毎週、日曜日6時30分より https://youtu.be/qVDft6zHl3I

『辨道話』を読む⑧

辨道話

(第三問)

…ただまさにしるべし、七佛の妙法は得道明心の宗匠(シウシヤウ)に、契心證會の學人あひしたがふて正傳すれば、的旨あらはれて禀持せらるるなり。文字習學の法師のしりおよぶべきにあらず。しかあればすなはちこの疑迷をやめて、正師のをしへにより、坐禪辨道して諸佛の自受用三昧を證得すべし。

(第四問)

とふていはく、いまわが朝につたはれるところの、法華宗、華嚴敎(宗)ともに大乘の究竟なり。いはんや眞言宗のごときは、毘廬遮那如來したしく金剛薩埵につたへて師資みだりならず。その談ずるむね卽心(身)是佛、是心(身)作佛といふて、多功の修行をふることなく、一座に五佛の正覺をとなふ、佛法の極妙といふべし。しかあるにいまいふところの修行、なにのすぐれたることあらば、かれらをさしおきてひとへにこれをすすむるや。

しめしていはく、しるべし佛家には敎の殊劣を對論することなく、法の淺深をえらばず。ただし修行の眞僞をしるべし。艸華山水にひかれて、佛道に流入することありき。土石沙礫をにぎりて、佛印を禀持することあり。いはんや廣大の文字は、萬象にあまりてなほゆたかなり。轉大法輪、また一塵にをさまれり。しかあればすなはち卽心(身)卽佛のことば、なほこれ水中の月なり。卽坐成佛(成道)のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直(眞)證菩提の修行をすすむるに、佛祖單傳の妙道をしめして、眞實道人とならしめんとなり。又佛法を傳授することは、かならず證契の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる學者をもてその導師とするにたらず。一盲の衆盲をひかんがごとし。いまこの佛祖正傳の門下には、みな得道證契の哲匠をうやまひて、佛法を住持せしむ。かるがゆゑに冥陽の神道もきたり歸依し、證果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさずけずといふことなし。餘門にいまだきかざるところなり。ただ佛弟子は佛法をならふべし。又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず。とこしなへに受用すといへども、承當することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふ(おもふ)によりて、大道いたずらに蹉過す。この知見によりて、空華まちまちなり。あるひは十二輪轉、二十五有の境界とおもひ、三乘五乘有佛無佛の見つくることなし、この知見をならふて佛法修行の正道とおもふべからず。しかあるをいまはまさしく佛印によりて、萬事を放下し、一向に坐禪するとき、迷悟情量のほとりをこえて凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌罤(センテイ)にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。

典座教訓⑤

典座教訓(https://eiheizen.jimdofree.com/%E5%85%B8%E5%BA%A7%E6%95%99%E8%A8%93/

…粥時の菜を調へ、次に今日齋時の所用の飯羮(はんこう)等を打併(たへい)す。盤桶(ばんつう)、並に什物調度し、精誠浄潔に洗灌し、彼此(ひし)、高處に安ずべきは高處に安じ、低處に安ずべきは低處に安ず。高處は高平、低處は低平。

 梜杓(きょうしゃく)等の類、一切の物色、一等に打併し、眞心に物を鑑し、輕手に取放し、然る後に、明日の齋料を理會(りえ)す。先づ米裏に蟲有るを擇び、緑豆、糠塵、砂石等、精誠に擇び了る。米を擇び菜等を擇ぶ時、行者(あんじゃ)諷經し竈公(そうこう)に囘向す。

 次に菜羮(さいこう)を擇び物料を調辨す。庫司(くす)に隨て打得す所の物料は、多少を論ぜず、麤細(そさい)を管せず、唯だ是れ精誠に辨備するのみ。切に忌む、色を作し口に料物の多少を説くことを。

 竟日通夜(ひねもすよもすがら)、物來りて心に在り、心歸して物に在り、一等に佗と精勤辨道す。 三更(さんこう)以前は、明曉(みょうきょう)の事を管し、三更以來は、做粥(さしゅく)の事を管す。

(A: 石霜山慶諸禪師、潙山の法會に抵つて米頭と爲る。一日、師、米寮内に在つて米を篩(ふる)ふ。潙山云く、施主物、抛撒すること莫れ。霜云く、抛撒せず。潙山、地上に於いて一粒を拾得して云く、汝抛撒せずと道ふ、這箇は是れ什麼の處よりか得來る。師、無對。潙山又云く、這の一粒子を欺くこと莫れ、百千粒は這の一粒より生ず。師曰く、百千粒は這の一粒より生ず、未審(いぶかし)這の一粒什麼の處より生ず。潙山、呵呵大笑して方丈に歸る。晩後上堂して云く、大衆米裏に蟲有り。『知事清規』) #典座 #教訓 #道元

日曜野外坐禅&随聞記の勉強会40

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チャット記録:

00:16:43 島   雄: ちょっと遅れているみたいですね……

00:17:21 今橋 勇蔵: そうですね。座禅の場所を変えたからですかね。

00:17:46 島   雄: あ、そうなんですか。

00:19:49 今橋 勇蔵: 今のところは寒いから、暖かいところに変えたそうです。

00:22:22 島   雄: 寒時寒殺、熱時熱殺

00:23:51 火童: まあそれはそうなんでしょうが、老師もわざわざ寒いところに集合して皆を苦しめたくはないでしょう…

00:24:02 火童: お

00:25:15 mori: おはようございます

00:32:51 ハル: 高橋さん、お久しぶりです!お元気そうでなにより😃

01:16:17 Kei-ichiro Imazai: 他者が私に向かって言う「天地いっぱいの自己」に対する疑問!もっともだと思います。

01:24:13 Kei-ichiro Imazai: 「母が作る雑煮」でもなく「祖母が作る雑煮」でもなく、「ウチの雑煮」という感覚に近いでしょうか。

01:28:53 島   雄: 「ゲームから下りた人」(ほとけ)から見れば、他己は他人であると同時に自己です。なんの矛盾もありません。「ゲームから下りていない人」(凡夫)からみれば、あくまで他人は他人であって自己でなく、自己は自己であって他人ではありません。ですから「他己」は矛盾と見えます。「ゲームから下りた人」の見方を、「ゲームから下りていない人」の価値観で解釈することに、基本的な問題があるように思うのですが……。私も「ゲームから下りていない者」なので、よくわかりません。

01:31:40 Masumi Sakikawa: 「自分『だけ』が良くなりたい」という他者と、どう協働していけばよいのかが分かりません。右の頬と左の頬のはなしになるのでしょうか?

01:34:37 火童: 自己と他者の円は重ならないように思います。

01:37:35 火童: 「いいもの」として他者の世界に現れること、が慈悲ということでしょうか?

01:38:10 島   雄: 「おそらく」、「ゲームから下りた人」から見ると、重なっているのではないでしょうか。犬に仏性が「ある」と同時に「ない」、即心是仏であると同時に悲心非仏であるように。

01:38:48 島   雄: すみません、「非心非仏」の間違い。

01:41:23 Kei-ichiro Imazai: 無我を徹底すると、自分はいなくなるので、自他の区別もなくなる、その結果「天地いっぱいの自己」になる。それを理屈でなく実感させるのが坐禅のように思います。

01:41:59 島   雄: 全く同感です。

01:43:52 Kei-ichiro Imazai: 他で満たされた自己という見方はとてもわかりやすいと思います。これは永井哲学の私に関する議論と相容れないように思われます。

01:44:50 火童: 天地いっぱいの自己なんだけど、その天地いっぱいに満たされているのは他であると。

01:47:49 今橋 勇蔵: 我々は、無分別の世界に生きられるのでしょうか。何も人しい

01:48:07 島   雄: 修証義に「窮亀を見、病雀を見しとき……」とありますね。池にはまりそうになった子を助けるときに「慈悲とはなぜか」なんて考えますかね。

01:48:07 今橋 勇蔵: 何も認識できないような気がします。

01:48:26 Kei-ichiro Imazai: 慈悲は、かなり消極的なものではないでしょうか。積極的に人助けなどで行動すると言うよりは、慈しみ、苦しみを共有すると言う程度のものが基本であるように思います。

01:50:08 Kei-ichiro Imazai: 自未得度先度他にしても、得度であって現実世界における救済ではない。救いの中身に慎重であることが必要ではないでしょうか。

01:52:55 島   雄: ネルケ老師が、山や寺にこもらず、大阪でこうしてわれわれのために勉強会を開いておられること、すごい慈悲の心と思います。理屈抜きに。

01:53:52 Kei-ichiro Imazai: 不遜な物言いですが、ネルケ老師の活動は、正当な菩薩行だと思います。

01:54:45 火童: 今日は時間が足りないなあ

01:55:06 島   雄: きょうも!

01:57:07 Kei-ichiro Imazai: 笑

02:02:28 Kei-ichiro Imazai: 他者に対する慈悲は修行の一貫、あるいは世俗諦の営みではないでしょうか。自未得度先度他、とすれば、誰も得度していないので、究極的な空の勝義諦では必要ないのかな…。

02:06:28 火童: ぼくから見ると無方老師はシュールな外人です。笑

02:07:16 Kei-ichiro Imazai: やはり大乗仏教は、ワンネスを経験して実世界はかりそめの世界だから、そんな世界に背を向けると言う態度を潔しとしない人たちが作った仏教なのでしょうね。だから悟りは後回し、宙ぶらりんな状態を受け止めて、衆生と共に生きろと…。

02:08:34 島   雄: え? 自分が悟らずに人が救える?

02:08:37 Kei-ichiro Imazai: いや、ワンネスの経験とは限らないかもしれないですが、単に現世を無価値と見る姿勢と言えばいいでしょうか。

02:09:34 Kei-ichiro Imazai: 悟ってしまったら、おそらく人を救うことも価値がなくなる可能性があるのではないでしょうか。苦しい世界を生きるからこそ、救済が必要なのではありませんか。

02:16:42 Kei-ichiro Imazai: 石ころが二つあって、それらが落ちていたとしても何も問題がない。それぞれが天地いっぱい(笑)。石ころには自分がないから…。

02:19:52 Kei-ichiro Imazai: ありがとうございました。

02:19:58 mori: ありがとうございました。 #禅 #正法眼蔵 #随聞記