煩悩の眼鏡

 安泰寺は修行道場です。一般に言われる修業ではなく、仏道修行の道場です。「仏道」の 「仏」という字は梵語で「ブッダ」といい、「覚者」という意味です。「道」は梵語の「 ボディ」にあたり、「覚智」です。ですから、安泰寺という修行道場は精神修養等のため にあるのではなく、自分の目を「覚ます」ためにあるのです。何に目覚めるのかというと 、自分が今生きているこの現実に覚めることです。
問題はこの現実です。この現実は我々の思うような現実ではありません。仏道修行という のですから、凡夫が坐禅でもして、仏になると勘違いする人がいます。煩悩がなくなって 、悟りの世界に入ることを修行の目的と思われたりもします。ところが、いざ坐禅してみ ますと、仏や悟りの世界どころか、雑念や妄想、煩悩無明だらけの自分に気づくではあり ませんか。そんな煩悩無明だらけの坐禅のどこが「仏道修行」なのか、と失望して坐禅を 止めてしまう人もいます。しかし、仏道修行とは自分の生きている現実に目覚めることで すから、煩悩が煩悩として見えてくることこそ「覚智」であり、「覚り」ではないでしょ うか。そういう意味で昔から仏教で「煩悩即菩提」と言われております。
煩悩がなくなるのは覚りではありません。煩悩が煩悩としてハッキリと見えてくるのが覚 りです。坐禅をすればこそ煩悩がどんどん見えてくるのもそのためです。普段の生活のな かでそれほど自分の煩悩に悩まされないのは、自分に煩悩がないからではなく、煩悩に気 づかないからです。煩悩に気づかないということは、自分の煩悩が「事実」に見えてしま うことです。そして相手の煩悩のみが「偏見」だと思い込み、「正しい自分」と「間違っ ている世の中」が絶えず戦ってしまうことになります。お互い間違っているということこ そ事実なのに・・・
物事を客観的に見、客観的に考えるというような表現を好んで使う人間はいます。また禅 の境地においてこそ、世界を客観的に見ることができるといってみたり、坐禅のなかで主 観と客観が一枚になると言ったりしますが、そんなことは不可能です。主観という言葉は もとより世界を認識する側を指し、その主体が認識した世界もどこまでも「主観的」です 。したがって、世界を客観的に見たり聞いたりできないのは、主観と客観の前提です。客 観的な世界は認識さりえない世界、認識される以前の世界のことです。 禅でも「凡夫を止める」と言いますし、「坐禅坐禅をする」と言います。これはつまり この認識される以前の世界を指します。人間がそれを「凡夫を止めた」、「坐禅坐禅を した」と認識してしまったときには、もうはや凡夫の煩悩に過ぎず、坐禅ではありません 。
安泰寺は凡夫の集まりですが、坐禅をする場所です。自分たちを「客観的」だと思い込ん だり、煩悩の眼鏡を外して悟りの世界が見えてきたと言ってみたりするような凡夫では困 ります。「み仏のおん命に生かされていることに感謝、感謝・・・」と嘯いても、凡夫側 の煩悩はどうなるのでしょうか。坐禅をする凡夫はどこまでも自分の凡夫性を自覚し、悟 りではなく煩悩にこそ目覚めなければなりません。煩悩が煩悩として見えてこない限り、 坐禅坐禅になってこないからです。

(無方)

 

** IMPRESSIONS **

初めて安泰寺に来させて貰った次の日から、連続5日間の接心が始まりました。何となく大変だろうなぁ。でも、試してみたいなぁ。と、軽い気持ちで訪れたので、朝の4時~9時と言葉にすると簡単やけど実際座ってみると、地獄のように辛くて、朝はめちゃめちゃ眠くて「走って布団に駆け込み横になって寝たい!」とか、慣れない姿勢を1日中していて肩、背中、腰、がパンパンに痛くって「こんなことしてたら体悪くなるよぉ」とか、とにかく「私は何の為にこんな遠い所までわざわざこんな辛い思いをしに来たの??」と、何度も何度も頭の中でグルグル回って、1日目が終わった時には明日の事すら考えれなくて、5日目が来る事なんて想像出来ない程ボロボロでした。2日目、3日目、と日を重ねる毎に体の痛みも少しずつましになり、1日15柱の座禅の中で2柱3柱と集中して座れる時間も増えてきて、でも、ある1時間すごく集中して座れたかと思うと、次の時間には「もう、こんなん嫌やぁ」って思ってる自分がいて、ただ座ってると言う単純な行為ですら、すごく簡単に180度心は変わってしまうもんやなぁ。と、なんかすごく実感しました。型も作法もぐちゃぐちゃやったけど、必死で何とか座布団の上に5日間座り続ける事が出来ました。終わった時には一生分の座禅をした気がしてたのに、今はまた接心に参加してみたい自分がいて、本当に人の心は不思議だなぁ、って感じです。接心が終わってから海水浴やキャンプファイヤーにも参加させて貰って、たった10日間の滞在とは思えない程に充実した素敵な時間を過ごす事が出来、安泰寺の方々に感謝の気持ちでいっぱいです。本当に有難うございました。

(KO/大阪/31歳)

悲劇のヒロインパート

 安泰寺に来て3ヵ月がたちました。あいかわらず泣きわめき自分は不幸だと悲劇のヒロイ ンな気分で毎日をすごしております。安泰寺での生活の99.9%はつらいことだと自分で思 ってて、イヤヤ、イヤヤーと言いながら何故私はここにいるのか。これが私の弱点でもあ り、幸せのエッセンスでもあるのです。今までの人生のとある地点までは失うものなんて あれへんとイケイケゴーゴーな生活を送っていました。即ち虚空の中の幸せ。ないものが あった状態でした。毎日空気をたべてフーおなかいっぱいやーと思っていたのです。しか し。失いたくないものを手に入れてしまった・・・幸せなのだろうけど、不幸なのです。
嗚呼、複雑な乙女心わかるぅー?とにかく。私は自分で自分のことを幸せやけど不幸だと 表したところ、その逆を言う人がいたんです。不幸だけど幸せだと。それを聞いて、私は 自分自身の超エゴをかいまみたのです。今迄はあくまで自分主体で何でも考えていました 。私が・・・のに、私だって・・・のにと。めちゃくちゃひねた考えでした。今も多分そ うやねんけど、まぁ、う~ん、幸せファクトリーになれるようにがんばりま~す。つづく 

(TO)