業と行 (大人の修行④)

 さて、「大人の修行」という言葉の意味ですが、「大人」の意味をハッキリさせる前にはまず「修行」について考えたいと思います。今年の「帰命」の2月号では「坐禅」と「座禅」の違いについて書きましたが、「修行(しゅぎょう)」と「修業(しゅうぎょう)」を間違う人もまた多いようです。「坐禅」と「座禅」と違って、「修行」と「修業」は字も発音も異なりますが、その意味も全く違うと言ってよいと思います。

 業によって振り回されながら生きることと、行願を立てて生きること、これほどかけ離れた二つの生き方はないでしょう。もちろん、一般に言われている「修業」の「業」という字は仏教用語の「ごう」ではなく、「わざ」という意味で使われているのですから、「修業」とは「わざを修める」ことです。日本に何十ヶ所も存在している禅の修行道場は実際のところ、そういう意味で「修行」道場よりも「修業」道場と言われなければなりません。衣と袈裟を着こなし、足袋をはいて畳の上で参拝して拝んだり、お経を読んだりして、一人前のお坊さんになるための「修業」をします。しかし、こうしてできあがったお坊さんはもうはや一つの「職業」に過ぎません。結局、葬儀屋の下請けでお坊さんを演じるという職業が、2500年前に釈尊が広めいた教えとほぼ縁が遠いであることは、言うまでもありません。釈尊が教えていたのは人間の生き方ですが、その生き方を実践すること、実際に実行に移すことが我々がしなければならない「修行」です。お坊さんになるための「修業」ではありません。また、これから仏・菩薩になるための「修業」でもありません。今ここ仏・菩薩の自覚をもって、仏・菩薩を実際に生きる毎日が本当の修行です。

 仏教の中でも違う「修行」の解釈があります。人間が仏になるためには、永遠に近い長い時間の「修行」が必要だとされています。その永遠に近い時間の間、人間は菩薩として功徳を積み、やがて仏になろうとして頑張り続けます。人間がえらくなって菩薩になり、菩薩がさらにえらくなって仏になると言う考えです。禅から見れば、こういう人間が「えらくなる」という「修行」はやはり修行ではなく、あくまでも「修業」に過ぎません。人間がたとえ永遠にこうした「修業」を積んでも、菩薩とはいえず、仏ともいえません。ハッキリと、「凡夫」といいます。禅では、こうした凡夫の計らいを止めにし、仏という自己の本来の力に任せて生きることを修行と言います。こうして生きている人がやがて仏になるのでなく、もう特に仏になっていますからこそこうした生き方ができます。永遠に長い修業のあとではなく、今ここで、です。しかし、それはどうしてこんなに難しいでしょうか。人間が物足りないことがイヤからです。

 人間は修行が「物足りない」といいます。当然です。仏の生き方ほど、人間にとって物足りないものはありません。凡夫の「我」が満たされないからです。「悟りたい」・「仏になりたい」といいながら、「凡夫」が止められないのは人間です。が、「凡夫」がいくら頑張っても「仏」になれないのは仏教の厳しいところです。また、今この自分がもうすでに仏ですから、凡夫が仏になる必要もありません。必要なのは、先ず「凡夫が凡夫に過ぎない」という自覚です。これはもうすでに大きな「悟り」です。そういうハッキリした「悟り」が得られるのは、もうすでに仏だからこそです。しかし、「凡夫が凡夫に過ぎない」という自覚で止まってはいけません。凡夫から見れば一番「物足りない」世界、人間の「我」を越えた生き方に目を覚まして行かなければ、人間はただの「半人前」です。「半人前」の人間が求めているのはテレビやインターネット、芸能界の最新情報、グルメ番組、スポーツ。こうした「エンターテインメント」は面白い、と人間はいいますが、一時的な癒しに過ぎません。テレビとコンピュータの画面が消えて、はじめて気付くものが大切です。画面が消えた瞬間、はじめて自分自身の「物足りなさ」に気付くのですが、この気付きから本当の修行がはじまります。この修行は決して、凡夫の心を満たせたり、落ち着かせたりするためのものではありません。しかし、やはり「物足りよう」という思いに勝てない幼稚な修行者にはどうしても難しいようです。そのため、「大人の修行」といいます。どこかに美味しいエサはないか、と嗅ぎ回っている凡夫を卒業して、仏・菩薩として生きること・・・この生きることが「修行」で、「仏・菩薩」は結局「大人」の意味ですが、また次号まで。