もの足りぬ (大人の修行⑥)

 先月は「大人」という言葉を「八大人覚」の「少欲」と「知足」で説明しました。  今ここ自分に与えられた一瞬の命の素晴らしさに気付き、よそでいらないものを追求しないことが大人としての自覚です。というようなことを言ってしまいますと、そんなことはたんなる空論であって、実際の生活においては不可能ではないかという疑問がわいてくるかもしれません。もしそうであれば、「大人の修行」は高尚な理屈で終わってしまい、修行でも何でもなくなります。しかし、私はここで理屈を論じようとしていません。あくまでも日々の生活そのものでなければならない我々の修行に脚光を与えるため、「大人」の意味するものを考えているのです。その考えを考えで終わらせないで、実際に実践し実証することが我々の課題でなければなりません。この実践・実証がなければ、なるほど空論と言わざるをえません。

 では、「少欲・知足」という「大人覚」はなぜ空論に聞こえるのでしょうか。それはここに絶えず「もの足りない」とぐずっている自分がいるからでしょう。実は何年修行しても、その「もの足りない」「何とかしてもの足りたい」という思いが自分のどこかで残ってしまいます。「足るを知る」どころではなく、「足りないを知る」ばかりです。

 沢木興道老師の言葉で表現すれば
 「坐禅はモノタリヌ。何がモノタリヌかというと、凡夫の人間がモノタリヌのである。」  「物足りぬ、坐禅に承当するだけである。物足りぬ、坐禅を身をもって行ずるのみである。物足りぬ、坐禅を身につけることである。」  これは一体どういうことでしょうか。「少欲・知足」という大人の修行が空論でなければ、どうして坐禅まで「もの足りぬ」と言われるのでしょうか。坐禅くらいの時、もの足りていいはずなのに・・・  その答えは沢木老師の「凡夫の人間がモノタリヌ」ということです。何も坐禅そのものがもの足りないのではなく、それを「もの足りよう」という思いで眺めている人間がもの足りていないだけです。そしてわたくし達は生きている間、人間です。人間としては、もの足りないのです。しかし、大事なのは、わたくし達は人間であると同時に、「仏」という少欲で知足しきっている大人とどこかで連結しているということです。人間でもあり、仏でもあります。大人と同時に、幼稚な自分でもあります。この二重構造はだれでも持っていると思いますが、片方を完全に振り捨ててもう片方を選び取ることは出来ません。  そうならば、大人の自覚を持った自分が、「もの足りない」とぐずっている幼稚な自分とどうか関わっていくことが「大人の修行」のしどころであって、大人の腕の見せ所です。「もの足りよう」という思いに振り回されて、大人の自覚を忘れてしまうと言う幼稚な生き方もあります。しかし、本当の大人なら、「もの足りない」ままで坐禅を身につけ、坐禅に承当すればいいのです。これも沢木老師の言葉ですが、  「坐禅はものたりぬまま落ち着いている。」

 禅宗に有名な「無字の公案」があります。一人の師のもとに一人の雲水が現れ、「犬にも仏性が有るか、それとも無いか」と聞いています。そして師が答える、「無」。  この「無」という一字があとで「公案」として使われるようになりました。  「公案」という言葉はもともと禅の教えを表す見本のような問答や発言を指しますが、近年はやりだした「公案禅」では形式化してしまった師弟のやりとりのマニュアルの一項目に下がってしまいました。弟子が師匠のいる「独参の間」に入り、与えられた「公案」を棒読みしたら師匠に「どうじゃ!?」と問いつめられます。この「どうじゃ!?」を合図に何らかの発言や動作によって自分の「見解」を示し、師匠から認められるか追い返されるかです。認められれば次の「公案」に進み、返されれば「復習」し新たな「見解」を考えます。この「無字の公案」の場合はたいがい、弟子が腹から「ムーーー」と大きな声を出せば、「無になりきった」ことになり、師匠から認められます。あくまでも「無字の公案」であり、決して英語などでよく言われる「無の公案」ではありません。「絶対無」や「東洋的無」ではなく、「ムーーー」でなければ、本当に「無」という一字に「なりきった」ことになりません。  公案によっては弟子が師匠に殴りかかったり、小便をかけるまねをしたりして「合格」する場合もありますが、まさに幼稚園のほほえましい子供遊びの光景そのものです。  もちろん、こういった手段にはちゃんとした目的があり、「公案禅」という手段によって頭の中で堂々巡りしている考えや思いから開放されるという効果は確かにあると思います。そういう意味での「赤ちゃん返り」を禅で「バカになりきる」といい、修行の一段階とするところもあります。

 しかし、今は「公案禅」の利点や欠点を論じるのではなく、「無字の公案」の背景にある、もっと深いものに目を向けたいと思います。「犬にも仏性が有るか、それとも無いか」、これは何もそこら辺の「犬」の話ではないはずです。自分自身を真正面から見つめたときに、そこで見えてきたものに「犬」としか言いようのない部分があると思います。「このまま仏」であるはずの自分ですが、この「犬の自分」をはたして「仏」と名付けてよいかどうか、そういう疑問ではないかと思います。一切のものは仏性をもっていると、仏教は教えますが、師は「無」といいます。「ムーーー」ではなく、「犬と仏とは、ハッキリ違う」ということです。凡夫がそのまま仏、というのは大間違いです。問答の続きで雲水はさらに聞きます。「すべてのものに仏性があるならば、どうしてこの『犬』としか言いようのない凡夫の自分だけに仏性は無いでしょうか」。師は答える「業に振り回されているだけからです」。

 この「無字の公案」と全く別なヤリトリがあるのは面白いです。同じ質問「犬にも仏性が有るか、それとも無いか」に対して、師は今度「有る」と答えます。「『犬』としか言いようのないオレやオマエも、「仏」という絶対真実から落ちこぼれることはできない」ということでしょう。凡夫と仏はハッキリと違うが、しかしながら凡夫を仏から切り離すことはできません。仏は凡夫を越えながら凡夫を包みあげてしまっています。雲水はさらに問う「犬にも仏性があるというが、一体どうして清らかな仏性がこんな醜い姿で現れるのか」。煩悩妄想だらけの凡夫としてしか自分を見いだせないのに、どうして「仏」と連結しているのか。師の有名な答えは「知ってことさらにおかす」ということです。「わざとそうしているのだ」。凡夫はどこまでも凡夫であって、仏ではありませんが、業性の凡夫が行願を立てれば、願性の仏・菩薩として生きることはできます。仏・菩薩は誓願をもった凡夫です。決して別の存在ではありません。そういう意味では仏も凡夫も一緒ですが、業に振り回されて生きると、行願を立てて「知ってことさらにおかす・自分のことが凡夫だと自覚しながら、この身を仏の方向に向かわせる」という生き方は、全く逆です。

 わたくしの中に凡夫の心と仏の心が同居しており、わたくしは幼稚でもあり大人でもあります。問題はこの二人のわたくしのつきあいです。ぐずっている子供がお母さんに手を引かれるように、幼稚なわたくしを坐禅の引力に従わせるのが大人のわたくしでなければなりません。しかし幼稚な自分にばかり気を取られ、大人の自分が自己育児ノイローゼを起こしても仕方ありません。自然に大人が子供を愛し、子供が大人を慕っていれば、なるほど業性の凡夫も願性の菩薩と連結している道理が見えてきます。

 「坐禅はものたりぬまま落ち着いている。」  「坐禅ににらまれ、坐禅に叱られ、坐禅にジャマされ、坐禅に引きずられながら、泣き泣き暮らすということは、もっとも幸福なことではないか。」  こういう落ち着きの中で味わえるのは大人の幸福ですが、悪ガキの自分にはこんな幸福が残念ながら分かるはずがありません。落ち着いている自分と平行して、落ち着かない自分がいます。この二重構造はたんなる自己矛盾ではありません。この矛盾的な構造を大人として上手に回転させれば、大きな修行力になります。道元禅師の「現成公案」の中で
 「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。   法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。」  と書いてありますが、幼稚なわたくしが自分の坐禅に満足してしまったほど、本当は全然坐禅になっていないのです。本当に坐禅していれば、坐禅に承当すれば、一方は足らずということが明らかになります。「一方は足らず」ということは坐禅坐禅で完結していても、人間の自分は「もの足りない」ということです。大人ほど、自分の幼稚さを自覚するはずです。こういう大人の自覚があってからこそ、修行が続けられ、坐禅工夫に打ち込むことが出来ますが、逆に「ここにすべてがあり」と自分の境涯に納得してしまったガキの修行は、すぐしおれてきます。大人の自分とガキの自分と、どっちがリードすることによって、自分の修行の方向は180度変わってしまいます。  「八大人覚」の「少欲」と「知足」に「楽寂静(よそ見しないこと)」「勤精進(自分で工夫すること)」「不忘念(自分は何をしようとしているのか、ハッキリ念頭におくこと)」「修禅定(坐禅にうち負かせること)」「修智慧(大人の自覚を実際にやること)」「不戯論(空論を止めること)」が続きますが、「八大人覚」の話はこれくらいにして、次回からは私がはじめて安泰寺を訪れたときの話をしたいと思います。