オマエなんか、どうでもいい! (大人の修行⑭)

 私たちはなかなか坐禅ができない、あるいは坐禅をしていても心が落ち着かない、その本当の理由を明らかにするために、一昔前の安泰寺文集の一部分を検討しました。それらの文書は非常に真面目に坐禅の如何を問うていますが、どこか他人事のように頭だけで坐禅を問題にしているような気が致します。というのは、坐禅に対して自分が定義しようとしている問題の解決を、自分が今この生身で送っている生活から離れたところで求めているように思われるからです。今、自分が実際に坐っている坐禅のほかに、まだ知らない・体験していない「本当の坐禅・本当の命」がどこかにあるのではないかというような思いから、「只管打坐とはなんぞや」と問い直したりもしますが、その「問い直し」自体の方向は間違っていると思います。得体のしれない「只管打坐」ではなく、今座蒲団の上で坐っている私は実際に何をしているのか、一体何をしようとしているのか、頭ではなく身体で何をしなければならないのか、修行はこういう問いから始まらなければなりません。

 「幼稚園の子供が大学へ行って勉強するようなもの」、自分の修行をこう振り返っている先輩がいますが、どうして彼にとって安泰寺での坐禅が「意味のない長い時間の経過」に過ぎなかったのでしょうか。彼はその理由が「師匠からハッキリ指導してもらえなかった」ことだとしていますが、はたしてそうでしょうか。修行するのは他でもなく自分自身ですが、その自分の修行に自分が持っている尺度と全く違う尺度を当てたり、思わぬ方向からつっこんでみたりするのが師匠です。師匠のそういう指導を受けることは非常に痛い体験ですし、時と場合によって「指導」というよりたんなる「イジメ」と思われることもあります。ですから、師匠の「イジメ」にはもう耐えられないといって、師匠の元から離れるのも大人の修行者の一つの決心ですが、師匠から離れた後に「指導はなかった」と言うべきではありません。指導はありましたが、その指導を自分の頭で消化しきれず、身体で受け止めることができなかっただけの話です。

  「居眠り坐禅」や「考え事坐禅」という罠にはまってしまいますと、やがて自分が居眠りしたり考え事したりしているという自覚もなくなり、師匠の指導も受け入れられなくなります。私たちの師匠、故宮浦信雄老師の指導は「安泰寺はオマエが創る」という一言から始まりました。言い換えれば、自分の修行、自分の命に対する責任はオマエ自身にあるのだぞ、ということでした。この一言と表裏一枚の、もう一つの言葉がありました。雲水も最初からは言われないのですが、しばらく修行しているうちに師匠からやたら「オマエなんか、どうでもいい」という言葉が飛びかかります。「安泰寺をオマエが創る」という言葉と、「オマエなんかどうでもいい」という言葉は一見矛盾しているようにも見えますが、実はこの「オマエなんかどうでもいい」という立場に立たなければ「安泰寺を自分で創る」、「自分の修行を自分で管理する」ということはとうてい無理です。「オマエなんか、どうでもいい」という言葉をどう飲み込むか、が問題なのです。

 「自分のコップに水が一杯になっていたのでは、水を注いでもこぼれてしまう。先ずコップを空にして即ち己見、己我を残らず振り捨てて正師の一言一句を余さず洩らさず受け入れる態度がなくてはならぬ」(沢木老師)。出発点がこれでなければ、「寝ルナ!」「心眼ヲ開ケ!」という折角の師匠の適切な指導も台無しになり、ポケーとしているうちに10年も20年も過ぎてしまいます。幼稚園の子供が大学で勉強をしても、意味がないのと同じように、未熟な修行者が安泰寺で何年間考え事したり居眠りしたりしても、「只管打坐」「坐禅工夫」「参師聞法」のあり方が分かるはずもありません。しかし、その責任はあくまでも本人にあり、そこを弁えていなければ誰も助けることはできません。

 昔の公案集などを読みますと、師匠と弟子のやりとりには以下のようなものが多いです。  「弟子は問う『如何なるかこれ仏法?』。師匠が拳骨でぶん殴る。弟子はめでたく悟りを開いて『喝!』と叫ぶ。」  「師匠は弟子たちに向かって拳骨をつきだして問う『これを拳骨と呼ぶものはぶん殴るし、これを拳骨と呼ばないものもぶん殴る。さー、どう呼ぶか?』皆だまってしまうが、たった一人が進んで師匠をぶん殴る。師匠曰く『オマエにこうして涅槃妙心を渡したぞ、後は頼む。』」  「師匠が三十年の間、弟子をぶん殴り続けたが、弟子はデコボコになる一方、目を開くこともなく、いよいよ師匠の下から離れた。弟子が山を下りて町に出たとたん、頭を電柱にぶつけ、やがて大いに悟った。」

 公案の世界ではこうしたパターンが多いですが、現実には必ずしもそう簡単な話ではありません。私自身は22歳で師匠に初めて出会って3年後その許で得度をし弟子にしていただきましたが、さらに8年後嗣法も終わりその道場を離れました。長い間師匠とまともな会話を交わすこともなく、朝「おはようございます」と挨拶をしても返事すらもらえなかった当時の私の心境は全く釈然とせず、師匠からいただいた「これからは自分で自由に歩め、人にはあやつられるな!」という最後の言葉が唯一の救いでした。

 宮浦老師が育てようとしていたのは、決して自分の意のままに操られる弟子でもなければ、いつまでも師匠にオンブされたいような幼稚園児でもありませんでした。弟子を独立させようという方針で師匠は徹底しておりました。「出家とは床綱をきるということじゃ」という言葉も、ある先輩が山を下りた際、「安泰寺を出たらまず二十年間、連絡をよこすな!」といった言葉もそれを語っています。私が常時「オマエなんかどうでもいい」と言われていた割に、最後に「弟子をたくさん作れ」というとんでもない期待と大きなプレッシャーをかけられたことも思い出します。それでも釈然としなかった理由の一つは、師匠に対する理想と現実のギャップだったと思います。

 上で述べたような、公案集に見られるような師匠と弟子の間で行われるやりとりを禅の言葉で「?啄同時」とか「感応道交」といいますが、その具体的なありかたが見えていませんでしたから、安泰寺を下りて4ヶ月後の2001年12月の「流転第5号」の中に

 「「?啄同時」、「感応道交」とは言っても、現実においては所詮、凡夫同士の引っ張り合い、傷つけあい。そこにお互い凡夫をやめて、真実を語り合う「感応道交」という大事な瞬間もありますが、いつもそう上手くいかないのは、師弟間だけではなく、人間社会の常ではないでしょうか。 格外の志気を持って、弟子は不完全なる師匠に完全なツキカタをしなければなりません。師匠は、上手な彫師がまがった木をも傑作に作り上げるように、弟子の成長の全責任を負わなければなりません。師匠は弟子を育て、弟子は師匠を育てなければなりませんが、これは凡夫同士の相談ではありません。 」

 と書いて、「私は今、もう一度 「正師は坐禅なり」 という一句を噛みしめながら、師弟間の本当のあり方を学びたいと思います」と締めくくりました。師匠との間との様々な行き違い、あれは一体何だったのでしょうか。生きている師匠と再び会うこともなく、3ヶ月後のバレンタインデー、浜坂病院で最後の別れを告げました。「独りで歩め」、「自己のより所は自己のみ」、師匠から聞かされていた釈尊のそういう言葉はこの時初めて実感できました。そして次の住職として安泰寺に戻り、一周忌の時は師匠の教えをこの二つの言葉で表現しました。  「安泰寺をオマエが創る」  「オマエなんか、どうでもいい!」  「安泰寺をオマエが創る」という最大限の自由・自己責任・主体性と同時に、「わたし」という小さな思惑(思いの枠)の全否定でした。この両極の間に高まったゆくテンションのなかで私は証道歌の言われる「鬱密深沈として獅子のみ住す」世界を味わいました。しかし、この「鬱密深沈とした」世界は決して深い修行のなかからみえてくる崇高な世界ではなく、深い迷いのなかでさらに迷い込んでしまう自分の「鬱密深沈とした」心境だったと思います。いずれにせよ、師匠が亡くなった後、自分の師匠を見る目が変わってしまいました。師匠の許で修行していた時は師匠を弟子という立場からしか見ることはできませんでしたが、今度自分が堂頭という同じ立場に立つことになり、師匠が日頃向かっていた諸問題に今度自分が取り組まなければなりません。そして、以前自分にとって師匠が「師匠」であったように、新しい入門者の目から今は自分こそが「師匠」として見られています。

 このことを今年の師匠の三回忌に当たって、こう表現してみました  「本師宮浦信雄老師が遷化され、もうはや3年目に入ろうとします。そのあとを受け継いで、近頃思うのは、禅僧の一生は月を指す「ユビ」のようなものに過ぎない、ということです。禅ではこの例えはよく使われておりますが、修行僧が目指さなければならないのは「月」という天地一杯の生命です。そして、それを身をもって行ずるという禅僧の生き方は「ユビ」です。月をいかに指すか、その課題に私は今突き当たっております。宮浦老師は最後、無常を持ってこの月を見事に表現された気が致しますが、師匠の亡くなった今、月はさらに明るく照らしているのは何故でしょう。ややもすれば、弟子はユビのあり方にのみ気が取られ、月を見ようとしないということは禅でよく起こる問題です。師匠の人格や生き方ばかりが気になり、その向こうに表現されている天地一杯のもの、御仏の御命に気付かないということです。同じ立場に立って、はじめて気付くものです。」

 道元禅師が「現成公案」のなかで書いておられるように、月は草の露にも映り大きな川の水面にも映ります。ひとしずくのような師匠もいれば流れる川のような師匠もういますが、そのどちらも全月を映っているのです。水の広さや形と関係なくに。そして、その月は実、各々の自己のなかに絶えず光っているのですが、器の大きさや水の量に気を取られている人は自分自身のなかの「月」に気づきません。 

 「人はみな身心あり、作はかならず強弱あり、勇猛と昧劣となり・・・この身心をもって直ちに佛を証する、これ承當なり。」と道元禅師は「学道用心集」の中で書いておられ、そしてその承當の仕方として「参師聞法」と「坐禅工夫」の二つをあげています。「坐禅は正師」の立場から言えばこれは決して二つの道ではなく、一つの「学道」ですが、仮に分けて考えるのであれば「尚一を捨てては承當すべからず」、片方だけをとって、片方を捨ててしまえば、仏道に適うことは不可能です。いずれは大人の修行としての「参師聞法」のありかたをもっと深く論じたいですが、もう一度「坐禅工夫」に戻りたいと思います。

  坐禅工夫の基本は正身端坐における調身、調息、調心だと前回も書きましたが、昔からその方法が教えられ、むろん安泰寺でも入門者の誰にでも教えます。「居眠り」とその他のもろもろの坐禅の落とし穴に落ちないためにどうしたらよいか、この「大人の修行」シリーズの中に「正身端坐」のありかたをさらに深く考えたいと思います。もちろん坐禅だけではなく、坐禅を含む1日24時間の修行を弁えることが目的ですが。そして、最終的にはまた「オマエなんかどうでもいい」という仏法の究極のところに出くわすことになると思います。