オウムから10年⑬「仏道との出会い(III)」

 坐禅との出会いは、長い間忘れていた「からだ」の発見から始まりました。「私が身体を持っている」というより「この身体が私」という気づきです。

 

 当時参加していた坐禅サークルのメンバーは私の寮の先輩や同輩15人ほどでした。週に何回か夕方で坐禅が行われましたが、坐ったあと、先生に必ず感想を聞かれました。「今日はどうだったか。自分を見つめることができたか」先生はよく「まなか」という表現を使い、坐禅はこの「まなか」に立ち返ることだ言っていましたから、「今日は自分のまなかを見つけたか」とも聞いたりしました。そして、私は毎回「まだ見つけていません。どこが自分のまなかということすら、全く分かりません。すみません」と答えざるをえませんでした。他の生徒達はと言いますと、「自分のまなかに美しい花畑を見つけ、それを歩きました」とか「自分のまなかに黄金の振り子が静かに振っていたので、それをじっと眺めました」とか、素晴らしい経験をしていたようですが、私だけそういった経験はありませんでした。しかし、自分のからだを感じ取るという気持ちよさがあって、それで通い続けました。

 

 そして、一年立ったある日。先生は私の部屋に来て、椅子に坐りました。「ボクはもうここでの仕事を辞めようと思うのだ。問題はサークルをどうするかということだが、キミはあとをやってくれないかな」。私は耳を疑っていました。15人のメンバーのうち、「まなか」もなにも得ていないのは私だけです。どうしてこの私が頼まれるのでしょうか。先生に自分の不適切さを訴えましたが、「キミはきっと大丈夫だ」と、ゆずりません。先生がやれというのですから、やるしかないと思いました。先生が寮を去ったあとには、私が責任者としてサークルの部屋の準備をしたり、時間をはかったり、皆が坐禅がしやすいように努めましたが、自身はありませんでした。なにしろ、坐禅とは一体何をすることか、未だ分からないのですから。

 

 その時はじめて禅について色々な本を読むようになりました。欧米では古くから鈴木大拙の本をはじめ、禅の本がたくさんあります。ドイツ人の書いた「弓と禅」という本も1948年から広く読まれています。本で初めて「悟り」などという言葉を知って、「これなら私がずっと探していた答かもしれない、悟れば人生の意味も分かってくるはずだ」と思うようになりました。ですから、最初の純粋な坐禅が本を読むことによって、悟るための手段いすぎない坐禅に落ちてしまいました。高校を卒業するまで、私は必死にこの「サトリ」を追いかける思いで坐禅をしました。

 

 高校を卒業したら、すぐにでも日本に渡って禅僧になりたかったのです。親も友達も「やめた方がいい」と忠告していましたが、聞く耳はありません。ただ、私を最初に坐禅に誘ってくれた先生に相談したら言われました。

「禅寺に入るなら、先ず世間でもいつでも就職ができるような資格を取った方がいい。自分は世間で通用しないからと言って、仏門に入るものもいるから」。私は「世間で通用しないから仏門に入る」という話は信じられませんでした。それなら禅寺は負け犬のたまり場ではありませんか。私には禅寺はむしろ何らかの理想地のように思えたのです。しかし、先生に「やっぱり少し待った方がいい、先ず大学に行け」と言われた以上、大学で物理学、哲学と日本学を勉強することにしました。

 

 高校を卒業してから大学にはいるまでの間には3ヶ月があいていましたので、初めて日本に行って宇都宮市でホームステイをし、日本中をヒッチハイクして回りました。あちらこちらで寺を見物し、いくつかの坐禅会にも参加しました。日本人の優しさに感激し、夢はさらにふくらみましたが、念願の出家は大学を卒業してからお預けということにしました。今から思いますと、もし当時19歳だった私が日本で師匠を捜し、得度していれば、誰に出会い、どこで出家していたか分かりません。大学で日本語を覚え、道元禅師をはじめ禅の原点も多生なり勉強してから禅僧になった方は良かったかもしれません。19歳の私に、日本の仏教がどれほど堕落し、デタラメな禅僧がどれほど多いかは想像もできなかったのですから。