弟子がバカなら、師匠もバカ

機は良材の如く、師は工匠(こうしょう)に似たり。縦(たと)え良材たりと雖も、良工を得ずんば、奇麗(きれい)未だ彰(あら)われず。縦え曲木たりと雖も、若し好手に遇わば、妙功忽(たちま)ち現ず。(学道用心集)


 仏教の中にもいろいろな宗派があり、それぞれの教えと実践があります。最終目的はいずれも「仏になること」、つまり成仏することですが、その意味づけと実践にはだいぶ隔たりがあるようです。禅宗ではとりわけ、目を覚ますことを強調します。目を覚ますということは、仏(ブッダ)になることですが、仏になるのはいうまでもなく、死んでからでは遅いのです。今ここ、この私が目を覚まして、仏にならなければ、仏教の意味がないというのが禅宗の主張です。坐禅はその実践であり、お経は坐禅の脚注に過ぎないというのも禅宗です。そこで大事になってくるのが実物見本です。釈尊はもうお亡くなりになって、お目にかかることはできません。いや、仏像ブームに乗っかってあちらこちらの「仏さん」にお目にかかることはできるでしょうが、仏像から生き方を教わることはできないでしょう。生きた仏の実物が必要です。
 語弊はあるかもしれませんが、坐禅を山登りにたとえてみましょう。実際にブーツを履いて、深い山にわけ入って、登りつめなければならないのはこの私です。私が動かなければ、誰も変わりに登ってくれないものです。お経はいわば地図のようなものです。地図ばかり眺めても、山はいつまでたっても見えてこないものです。しかし、一人で山に入ってしまうと、迷子になるのも時間の問題です。
 最初はっきり見えていた山のてっぺんは、いつのまにか見えなくなってしまい、深い霧の中で迷うこともあるでしょう。そこでこの道を知り尽くしているガイドが道をともにしてくれていれば、初心の登山家でも心強いものです。
 道元禅師は師匠と弟子の関係を大工と木材に例えています。良材が名人の手にかかれば、優れた作品ができるのはいうまでもありません。ひねくれた「曲木」であって、それなりの師匠にめぐり合えばその「妙功」も表れてきますが、師匠が駄目なら弟子のせっかくの素質も台無しになってしまうのが、禅師の師匠論のポイントです。ですから、弟子として心得なければならないのは、まず正しい師匠を見つけることです。
 道元禅師は正しい師匠の教えを混じりけのない乳に例えていますが、無味無臭の「真水」こそ仏法のたとえとして一番適している気がいたします。弟子は「あぶら・酒・ウルシ」の類ではなく、混じりけのない真実の水を提供している師匠を求めるべきです。楽な道ではなく、間違いなく山のてっぺんにたどり着く道を教えてくれる師匠のことです。かなしいかな、多くの人が追い求めているのは正しい道より楽な道であり、純粋な水よりおいしそうなミルクシェイクです。
 弟子は師匠次第ということを、教える立場に立って者として、ぜひとも肝に銘じたいものです。子どもも親次第なら、学生は教師次第です。次世代は私たち次第です。
 仏教の元祖が釈尊ですが、今生きている私たち現代人はもちろん、釈尊に直接にお会いし、釈尊から法を聞くわけにはいきません。釈尊が弟子たちに提唱した法を弟子たちが実践し、釈尊が亡くなった後は弟子が師匠となり、コップからコップへ水を移すよう
に次代にその法を伝えたのです。釈尊が提唱していた実物見本を次代、そして次々代も実践によって提唱し続けなければなりません。師匠の教えを忠実に実践し、そこに自分のエゴを交えないことが弟子の責任です。

 自分のコップに水が一杯になっていたのでは、水を注いでもこぼれてしまう。(沢木興道)
 自分を忘れてこそ、師匠の法が始めて学び取れるのです。
 ところが、どうでしょう。日本では今、僧侶の肉食妻帯は当り前です。もはや出家といえず、お寺に居座っている「在寺」といわれても仕方ありません。今の私自身もそうですが、釈尊の実物見本と比べて、あまりにもお粗末に見える師匠が多いでしょう。
弟子時代にはかくもいう私だって、疑問に思いました。
「お酒も飲めばタバコも吸う、そういう師匠からはたしてどういう法を伝えてもらえるか?」
師匠に直接聞くのも気が引けるので、ある日に師匠のまた師匠にお目にかかり、自分の気持ちを吐き出しました。簡潔な答えが
返ってきました。
「バカな弟子のところには、バカな師匠しか来ない」
弟子が師匠次第なら、師匠も弟子次第、ということです。

不完全者である師匠に、いかに完全なつき方をするか。(内山興正)

 学び取ろうとする私に法が伝わるかどうかということは、師匠によるのももちろんですが、私自身の受け止め方にもよります。つまり、仏弟子の立場に立つときには「師匠が弟子を作る」という考え方は大きな落とし穴になりかねません。自分の不甲斐なさを師匠に押し付けてしまう言い訳になるからです。弟子は逆に、師匠を作るのです。師匠の欠点ではなく、自身の欠点を見つめること。自分のエゴではなく、師匠の可能性を引き出すこと。不完全な師匠を弟子が乗り越えること。完全を求めるなら、自分自身に求めること。時には、泥水からも真水をを抽出しなければならないのは、今を生きている、私たち現代人です。