『ただ坐る』、何の役にも立たない坐禅入門

 ここ数年、「火中の蓮」の中で坐禅について書いた文章を中心に、一冊の坐禅入門をまとめることになりました。6月中に、 「ただ坐る――生きる自信が湧く 1日15分 坐禅」という題で光文社新書から発行される予定です。去年の「迷える者の禅修行」、今年の4月の「裸の坊様」に続いて、三冊目の日本語の著書です。秋に、 もう一冊新しい本が出る予定ですが、今年は執筆活動で忙しい一年です。ここで、新しい本の目次と前書きを紹介いたします。

目次

はじめに
1)坐禅との出会い
2)なぜ今、坐禅を?
3)まず、頑張りすぎないこと
4)環境を整える
5)坐禅に向かう態度
6)坐禅に必要なもの:坐布団、衣服
7)調身-身体を整える
8)調息-呼吸を整える
9)調心-心を整える
10)禅と実生活

Stay hungry. Stay foolish!

 これはアップルCEOのスティーブ・ジョブズの人生のモットーであったようです。ハングリーであり、愚か者であること。
  末期ガンの宣告を受けていた彼はスタンフォード大学のスピーチで卒業生たちに投げかけていました。
  「私は死ぬのだ。この現実こそ、自分を《もしかしたら、何かを損するかもしれない》という幻から覚ましてくれる。私たちは最初から裸ではなかったのか。自分の心に忠実に生きない理由は一つもない・・・[中略]・・・君たちの時間は限られている。人の敷いたレールに乗っている暇はない。他人の考えに縛られるな」
  そこに私が思い出すのが、禅の経典の『宝鏡三昧』と『参同契』の結びの言葉です。
  潜行密用(せんこうみつゆう)は、愚(ぐ)の如く魯(ろ)の如し・・・
  謹んで参玄(さんげん)の人にもうす、光陰虚(こういんむな)しく度(わた)ることなかれ

  横見せず、愚直に前へ進むこと。時間を無駄にしないことです。
  ジョブズの魂と禅の精神がよく似ているのは、けっして偶然ではありません。ジョブズは知野弘文老師という、アメリカで布教していた日本禅僧に師事していたのです。そのことは今、日本で注目されつつありますが、欧米のフロントラナーが禅に傾倒しているということは、けっして珍しいことではありません。彼ら全員が禅の内容を正しく理解しているかどうかは、別問題ですが・・・

 最高時速三〇〇キロも出るスポーツカー、南国の島の高級リゾートホテル、そして新発売の睡眠薬・・・それらに共通しているものは何でしょうか?
 「ZAZEN」という固有名詞です。コンピュータソフトからボディローションまで、欧米ではいまやあらゆるものに「ZEN」というレッテルが貼られています。フランス語で「Restez Zen」といえば、「落ちつく」という意味です。「一瞬の気づき」を英語で表現するなら「A Zen moment」。「ZEN」が国際語になってから久しくなります。なんとなくファッショナブル、先進的なもの、シンプルで現代人の病に効き目のありそうなもの・・・それが欧米人のいう「ZEN」。
 一方、日本ではどうでしょうか。
 「その字、フンドシと読むんだっけ?」
 「セミじゃないの」
 「いや、ハダカだと思うよ」
 「禅だよ、ゼン!オレ、こんど禅寺に修行をしに行くんだよ」
 「えっ?なにそれ、罰ゲーム?」
 日本で「禅」といえば、後ろ向きで古臭いもの、なんとなく暗いものと思われていませんか。

 日本人は「座禅」と「坐禅」の違いはもとより、「修行」と「修業」の違いも知らず、「ホトケ」を死者だと思い込んでいます。私が住職をつとめている安泰寺という禅寺にやってくる参禅者も、本格的な修行を目指して一月間以上滞在するのは、ほとんどが外国人です。日本人の滞在はせいぜい二、三日間、「ちょっくら修行体験でもしてみよう」というくらいの軽い気持ちで、寺に息抜きをしに来ています。
 その参禅者たちによく聞かれます。
 「坐禅をして何になりますか」
 答えはきわめて簡単です。「何もならない」。
 そこをまず最初に理解してほしいのです。坐禅をしても何もならないのです。本当に、何もならない。
 「そんなバカな!それでは、どうして『坐禅入門』なるものを書くのか」、と聞きたくなる人もいるでしょう。

 ご説明しましょう。「何もならない」からこそ、坐禅がいいのです。人間の一生も、結局何かなるようなものではありません。しかし、この「何もならない」一生をただ生きることが大事なのです。今の日本人に足りないのは、ただ生きることに自信を持つことだと思います。何もならない、この一生をただ生きぬくというキモが据わっていなければ、芯のない生き方・中途半端な生き方になってしまいます。
 「何になりますか」という問題提議の仕方から中途半端なのです。その自信のない、中途半端な生き方を変えてくれるのが坐禅です。まず「何もならないこと」をただやることです。
 日常生活を車輪にたとえて考えてみましょう。家庭生活、社会生活、ワークライフ、友達関係…生活のあらゆる場面をこの車輪が支えているとします。実は、車輪がうまく回転するために一番大事なものは何かというと、動かない軸です。「動き回る」ことだけを考えた場合、車軸は何の役にも立っていないように見えるかもしれませんが、そうではありません。ぶれない軸があるからこそ、車輪が調子よく回るのです。
 現代社会で問題にされているのは、もっぱら効率のことです。「結果がすべてだ」と割り切ってしまえば、そこに至る過程などどうでもよくなってしまいます。それは子どもの教育からはじまっているのではないでしょうか。子供を社会競争に負けないように予備校へ通わせる親たちは、「遊ばせておく暇はない」と言います。大学受験に結びつかない勉強、ましてや遊びは「非効率的」だからだそうです……そういうふうに育ってしまった子供がいざ社会人になっても、考えることは皆一つ、「何をどうすれば、何になるか」ということばかりです。市販の仏教入門書を見渡しても、「力になる」「役に立つ」「いいことがある」「一生幸福になる」本ばかりです。仏教はそんな低次元な代物であったのでしょうか。いや、私にはそうは思えません。鼻の先にぶら下がっている人参を追いかけるのを止めることこそが坐禅なのです。
 現代人は絶えず、何かを求めて生きています。それはお金であったり、恋人であったり、学校や会社での成功であったりします。つまり誰しもが、今ここに生きている自分に欠けている「しあわせ」を追いつづけているわけです。しかし、一生懸命にしあわせになろうとしている私たちは果たして頭の中で思い描いているしあわせに近づいているのでしょうか。いいえ、今・ここ・この自分の本当の有り方を見失って、自分をいつも留守にしているだけなのです。しあわせになろうとしているうちに、しあわせとはいったいどんなことなのかということも、また実は今、しあわせなのだ、ということも分からなくなってしまいがちです。
 まずはいったん、求めることを止めなければなりません。何かになろうとがんばって坐るのは坐禅ではない気がします。あらゆるがんばりを止めにして、ただ坐ることこそ坐禅なのです。
 人間は何をどうしようが、最終的には死ぬのです。行きつくところが棺桶です。

 子供の頃から、私が不思議でならなかったことがあります。
 「どうせ死ぬのであれば、どうして学校で一生懸命勉強をし、いい会社に勤めて、出世をし、家庭をつくり子供をまで出世させようとするのか。死ねば同じではないか。そもそもなぜ生きているのか」
 父親にこの疑問をぶつけたのが小学生三、四年生だった頃です。父は困った顔をしていいました。
 「学校の先生に聞いてみなさい」
 一般に「大人」といわれているのが、こんな程度のものなら、大人なんかになりたくないと思ったものです。
 日本でも各個人、そして社会全体が「ぶれている」と思います。どうしてそうなるのでしょうか。それは生活の車輪が回っても、その中心にしっかりした軸をもっていないからだと思います。「生きるために」しなければならないことがいっぱいあり過ぎて、そもそも何のために生きるのか、ということを問う余裕もなければ、勇気もありません。「ただ生きる」という自信もありません。ですから、ぶれるしかないのです。

 あなたはいうかもしれません。
 「周りの人も皆、同じだよ。私一人じゃこの社会を変えられない」
 確かにそうです。きょろきょろ周りを気にし、人の評価を基準に生きているのが日本人です。軸がないことこそ日本社会の特徴だという人もいます。だからこそ、どこかがぶれ出すと全てがぶれてしまいます。日本人のそういう国民性は絶対に変えられないものだと諦めないで、あなた自身の生き方から変えてみませんか。私がドイツ人だから、そうして主体性や自主性を強調しているだけなのでしょうか。いや、私はそうは思いません。私自身が日本人の師匠からそう教わってきたからです。
 私が安泰寺に入門した際、師匠からとてつもないことをいわれました。
 「安泰寺は学校ではないのだぞ、安泰寺をオマエが創るのだ!」
 これは人生についても社会についてもいえることだと思います。何にしても、この私が創らなければなりません。

 車輪に一番必要なのは車軸ですが、その車軸は一点で充分です。今ここ・この自分です。この私から出発しなければ、ぶれない人生、ぶれない社会が創れないのです。
 車輪が回るためには、一点のしっかりした車軸に支えられていなければならないが、車軸自体は回ってはならないのです。そういう軸をあなたの生活の中でも持ってほしいものです。
 私の生活の軸は坐禅です。年間一八〇〇時間、壁に向かって坐っています。考えようでは、とんでもない時間の無駄遣いです。坐禅の時間をすこし削れば、他のことがたくさんできるはずです。自給自足のための農作業にも余裕ができるし、参禅者の話に耳を傾けることもできるし、家族と過ごせる時間も増える……。そう思って坐禅を少なくしてみると、狂いが生じてしまうのはどうしてでしょうか。いざ坐禅をやめれば、一見時間は増えますが、その時間を使いこなす力が減ってしまうのはどうしてでしょうか。逆に、忙しい中で腰を下ろして坐禅してみると、坐禅の時間だけでなく、坐禅以外の時間まで輝いてくるのが坐禅の不思議です。
 あなたの生活の中には、動かしようのないしっかりした一転がありますか。朝ごはんよりもメールチェックを優先させてしまっている…、頭の中は仕事のことでいっぱい…、ノルマであくせくして生きている意味が分からなくなってしまったという自分がそこにいるというのであれば、一度坐禅を試してはいかがでしょうか。いつも頭の中でどうどう巡りしている考え事のとりこになっている自分でも、三十分の間だけでも何のためにもならない「考えない時間」を持つことによって、その時にこころが落ち着くばかりではなく、生活全体の回り方が違ってくるのです。車輪の軸は、なるべく丈夫でなければなりませんが、何も安泰寺のように長時間の坐禅をする必要はありません。量より質です。三十分の坐禅から始まる一日の中身が違ってきますし、坐禅を車軸とした人生の内容も変わってきます。

 こんな理由で、私は日本人に坐禅を勧めたいのです。私自身は山奥の僧堂において坐禅修行を二十数年間つづけてきましたが、あなたも本書とともに今日から坐禅を始めてみませんか。そのために頭を丸めて出家する必要はもちろんないし、都会の中で仕事をもちながら、あるいは家庭をもちながらもできます。本の最後には、坐禅と実生活という大事なテーマにも言及したいと思います。もうすでに坐禅を実践している人のためにも、この本が役に立てれば幸いですが、それよりも一人でこの本を見て坐禅を始めることを想定します。
 文中にしつこいと思われるほど、道元禅師や沢木興道老師など、古人の言葉を引き合いに坐禅を説明しています。そんなことを一切せず、今はやりのスピリチュアル・ムーヴメントよろしく漢文ではなく横文字を連発し、坐禅をもっと格好いいものとしてみせることもできていたのでしょうが、あえてそれはしませんでした。それをしてしまえば、欧米のニューエイジのように「ZAZEN」を中身のない、一種の広告にしてしまうからです。
 禅が二五〇〇年の歴史を誇るのにも、それなりの理由があります。多くの人々はこの道に命をかけて、その実践を脈々として伝えてきましたが、その歴史は缶詰にして保存するべきものでもなければ、長い伝統を盾にして絶対の権威として立てるものでもないのです。そうではなくて、あなた自身がそれを実践によって確認し、実生活の中で機能させなければ意味がないのです。禅はこれからの世界を創造しようとする私たち現代人のための一つのヒントに過ぎないのです。私がこの本で紹介したい「坐禅」は古臭いものではありませんが、無理に目新しいものを編み出そうとしているわけでもないのです。昔から続いている道に、今、新たな一歩を踏み出そうとしているだけです。

 ところが、本を見て坐禅を一人で始めることは危険でもあるのです。坐禅の迷子になりかねないからです。本書の役割を例えていうのであれば、地図みたいなものです。坐禅という山のてっぺんまで登りたければ、地図だけを見ていてもだめです。実際にブーツを履いて、山に分け入らなくてはなりません。つまり理屈ではなく、実践です。そのためには信頼できるガイドも欲しいものです。ガイドがなくても、よきハイキング仲間さえいれば心強いです。最初は山のてっぺんがはっきり見えたとしても、いざ山に入ってしまうと、くさむらの中で道に迷うことがよくあるからです。
 目的地にたどり着くためには地図を参考にしなければなりませんが、どの地図も一枚の地図にすぎず、坐禅の実物ではないということは最初から頭に入れる必要があります。坐禅の旅の途中で、地図に書かれている標高線と目の前の実際の風景がうまくマッチしないこともしばしばあるでしょう。地図をみたからといって、正しい坐禅の実践につながるかどうかは、この地図を描いた私の責任でもあるのでしょうが、読者のあなたの責任でもあるのです。本書はガイドにも仲間にもできなく、地図に過ぎないのです。この地図を描いている私自身だって、迷いのスペシャリストであっても、「人生の正解」なんてものをつかんでもいないし、そんなものの存在する信じていません。それでも、この地図があなたの人生の旅の中で何らかの道しるべとして役に立てば、これほど幸いなことはありません。