安泰寺文集2012年度

Antaiji

 「私が安泰寺で何を目指しているのか。」

 私は安泰寺に、自分に向かってそう問い続けることのできる場所であってほしいものです。「自分に向かって」というその問いは自問自答すべきものではありません。その問いは山に向かっても発せられ、田に向かっても畑に向かっても、その他一切に向かって発せられなければならない問いなのです。大事なのは、返ってくる答えではありません。その場その場に立ち向こう新鮮な眼差しとまっすぐな姿勢が大事なのです。その人の目つきと歩き方を見れば、どれだけの問題意識で安泰寺で滞在しているのかが一見分かります。

 自分自身の話をしましょう。この一年だけ、私は四回も病院に駆けつけました。

 一回目は二月七日の大雪の日に、妻が緊急手術で次男を出産したときでした。二回目はそれから一週間後、安泰寺の雲水頭がヘリコプターで精神病院に搬送されたとき。三回目は雪解けのあと私自身が顔面を怪我し、弟子たちは心配して運んでくれました。そして四回目は夏の終わり頃、参禅者が下山の朝に心臓発作を起こし、三本のバイパス手術を受けたときでした。次男の場合は一ヶ月間ほど集中治療室に入っており、二回目のときも四回目のときも外国人のため、私は通訳兼家族代表として付き添いをしました。一番簡単に済んだのは、自分自身が怪我したときでした。

 堂頭になって十一年目です。安泰寺に来て二十二年、ちょうど人生の半分をこの山ですごしたことになります。来た当初、まさか堂頭になるとは思ってもみなかったもの、歩んできた人生には文句がありません。子どもの教育の問題がなければ、安泰寺に骨を埋めても本望です。多くの人々と修行を一緒に、たくさんのことを学ばせてもらいました。特に私が堂頭になってから、英語が多少なりに話せるからか、外国人参禅者が増え、また出家した雲水の長期案居より三ヶ月未満の短期参禅が圧倒的に多くなりました。この一〇年の間の一番の問題は、人の出入りの激しかったことです。最初の冬は一人でいたときもありましたが、次の夏には十人。五年前の夏には二十五人まで増えていたが、冬にはたった五人。半年もすれば、全員が入れ替わった時期もありました。この十年間、安泰寺で三年以上安居した人は、私のほかにはいません。その間の安泰寺に僧堂というより、ゲストハウスという雰囲気があったのも否めません。

 そこで最近痛感しているのは、私一人では安泰寺を作る力がないということです。例えその力があっても、私一人が安泰寺を作ってしまえば、それは安泰寺に来ている人たちにとって意味のないことになってしまいます。安泰寺にいる一人ひとりが、理念ではなくその身をもって一緒に安泰寺を創造しなければなりません。

 今までのままでは、もうやっていられないと思うようになりました。そもそも、ここでゲストハウスを開くつもりはまったくありません。今春に、安居者に言いました。

 「秋以降に安泰寺にいつづけるなら、少なくとも三年のつもりで安居すること」
 「今後の短期参禅は原則として廃止。新たな参禅者も、《石の上でも三年》と腹をくくってもらうこと」

 そうすれば、だれもいなくなるなると覚悟をしていましたが、どうせならここで寺をつぶしてもいいという気持ちでした。驚いたことに、今年の冬はこの二十二年で一番多い、一〇人の安居者がいます。おのおのが果たして自分が目指すものを自分に問う厳しい姿勢を持っているかどうか、そして果たして三年間、安泰寺で持つかどうかはこれから明らかになるでしょうけれども、少しだけ真剣さが増してきた気がします。そのおかげで、私自身も再び、安泰寺の生活に自分を投げ入れようという気持ちが湧いてきています。皆に感謝している今日、このころです。