永井哲学と私

「承認欲」についてのツイートが琴線に触れたので、思ったことを書きます。  先生の比喩を少し変えれば、こういうことでしょう。  寿命が尽きるまでの食料品は宇宙船に乗せて、私はたった一人で宇宙に向かって旅立っている。四六時中、地球と交信ができてあらゆる情報は入手できる。ところが、ある日に気づくことがある。地球からの受信がちゃんと届いているのに、こちらからの送信はどういうわけか、地球には届いていないらしい。地球側から私の存在がまったく承認されていないのだ。当然、そのうちは地球の役所では勝手に「死亡届」が出されてしまうのだろう。そう気づいたときに、私が普通に、あるいは楽しく生きることはできるのだろうか?  

私(=ネルケ)の考えでは、この例えはある意味では私たち人間の普通の状態を表わしているのではないかと思います。何せよ、「承認欲」というときに、「私の価値」ではなく、「私の存在」を承認してほしいという場合、ネルケ無方という個人の特徴などを承認してほしいというわけではもちろんなく、そいつの存在を承認してほしいわけでもない。個人としての私はどうでもよく、先生の表現を使えば、比類のない〈私〉を承認してほしいのだ! しかし、それは無謀なご注文であるのは承知の上で、だれでもいわば「送信のできない(届かない)宇宙飛行士」です。  先日、私が新宿で使っていた、シモーヌ・ウェイユの「愛するとは、他者の存在を信じることだ」という言葉は、言い換えれば「愛とは他者の存在の承認」とも言えるでしょう。この場合も、「承認する(=信じる)」とはもちろん、その人の個性を認めるとか、価値を認めるとか、つまりその人の比類のある存在(一切分の一の自分)を認める(信じる)ことではなく、認めようのないその人の比類のない存在(一切分の一切の自己、〈私〉)を認めてしまうのではないでしょうか。 生きとしえ生けるものの中の一つとしての私は、「私のかけがえのない存在を認めてほしい」という無理な注文を出し続けている。ところが、永井先生が繰り返し強調されているように、神ですらネルケ無方が〈私〉であるということに気づいていない。つまり、神の存在を想定しても、ネルケ無方は承認されても、肝心な〈私〉は承認されないのだ! 神ですら承認しえないこの〈私〉を、他者に承認してほしい、これは承認欲の正体ではないでしょうか(もちろん、ほとんどの場合はそれは外見、金、ステータスなどによって、個人としての自分を承認してほしいといういわば「普通の承認欲」に隠されていると思います)。  承認されたいのは、「私」としての存在ではなく、〈私〉の存在! こんな欲深い承認欲が満たされるはずもないが、菩薩(あるいはシモーヌ・ウェイユのような「聖人」)は逆に、自身は承認されようがされまいが、他者のそういう承認欲に答えようとしている。宇宙飛行士の例でいえば、「お前のこと、ちゃんと受信できているよ」という、届くかどうかわからないmessage in the bottleをそれでも、宇宙空間に向かって発信する。  

 純粋に愛することは、へだたりへの同意である。自分と、愛するものとのあいだにあるへだたりを何より尊重することである。  他の人たちがそのままで存在しているのを信じることが、愛である。 (シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』より)

 

〈私〉を承認できるのは、最終的には他者ではなく、私のみである。しかし、そのきっかけを他者が作ることはできる。「お前はかけがえのない存在を生きている」・・・送信されたこのメッセージがはたして受信されるかどうかは、送信した本人にはわからない。しかし、同じメッセージをかつて受信し、〈私〉に気づかされてしまった経験のあるものなら、他者にも発信せずにはいられないだろう(=したがって、菩提樹の下でこのメッセージを受信したブッダは、ただ単に「おしゃべり好きで」生きとして生けるものに向かってそのメッセージを「転送」したとは思えない。釈尊の悟りはいわば転送せずにはいられない「迷惑メール」であった!)。  このことはまさに、私が新宿で提起しようとして問題とつながっています。  

 親がそれぞれの子供の個性を認め、価値を認め、「己の内部」として愛したとしても、子供の承認欲はそれで満たされないでしょう。子供は親から、「みんなと同じように」愛されたいのではなく、ましてや「親の一部」として承認されたいでもなく、比類のない存在(したがって兄弟の仲の一人ではなく)として承認されたい。ところが、最愛の親もそのご注文だけには答えられない。内山老師の表現を使えば、奥さんと自分は二分の一の存在ではなく、一分の一の存在。親と子供も一分の一の存在。ところが、その一分の一の存在をこの〈私〉ととらえて、したがって生きとし生けるものを「〈私〉の内容」として受け止めてしまえば、他者の〈私〉を否定してしまい、その比類のない存在を承認できなくなるでしょう。 だから、第六図(比類のない〈私〉への気づき)からさらに出て、第一図(私秘性:だれでも「比類のない存在」である)を迂回し、他者に「お前こそ、比類のない存在」という矛盾したmessage in the bottleを送るの、菩薩だと思っています。  たとえはまずいかもしれませんが、複数の子供の耳元で、それぞれほかの子供の聞こえないように、「これは絶対に秘密にしなければならないことだが、実はお前のことだけ愛している」とささやくようなこと。そしてこのメッセージが届くころには、そうやって愛されているのは「兄弟の中の一人」の自分ではなく、まさに比類のない存在であったという気づきを願う。子供がそう気づいてくれれば、そういうふうに愛されているんは実は自分だけではなかった(しかし、自己だけであった)と気づく。  最後に、個人的な体験で恐縮ですが、坐禅を初めて三年目、高校生の頃に三週間ほど山小屋に籠ったことがあります。無口で、一人でいるのが一番好きな私が驚いたのは、「寂しい!!!」という感覚でした。一日に一回、夕方に近くの農家に牛乳をもらいに行きましたが、朝からこの農家のおばさんと一言だけでもかわすことを楽しみに、その一日を過ごしていました。  その十年後、28歳の頃には5週間ほど、山にテントを張って籠ったことがあります。そのころは、高校生の経験があったので、食料品の心配なども、寂しさに耐えられるのだろうかという不安がありました。ところが、そのころは全く「寂しい!」という思いは起こらず、もっぱら野ネズミと食品を巡って戦っていました。 その差はなんだったのかわかりませんが、高校生の頃よりも28歳の頃から、〈私〉の比類のない存在に安住することができるようになっていたかもしれません。人から承認されなくても、自身で承認できるようになっていたのではないでしょうか。そして現在の私の公案は、いかに他者を(その人の)〈私〉への承認へ導くか、ということかもしれません。 長々とすみません。

 ツイッターのアカウントを持っていないので、プライベートメールでの返信をお許しください。  先生と私の「真逆」のアプローチを順修行と逆修行として理解してよろしいでしょうか。順修行の場合、今まで「私」だけを生きている者が、実は(他の誰にも気づかれえない)〈私〉をも生きていることに気づいて、一人の人間から一服することに一種の救いを見出している。私(逆修行)の場合、ゲームの虚しさに気づいて、一人の人間であることから一服していたものは、他のプレーヤーにも同じことに気づいて欲しいと願うようになる(発菩提心)。そのために、再びゲームに参加し、従来の「私」というコマを演じながら、新しい菩薩のルール(布施、愛語、利行、同事)で遊ぶことによって、他のコマ(『私』たち)たちに「お前はコマだけじゃない、ゲーム全体を見渡している存在だよ」と呼びかける。しかし、そのためにこちら側は〈私〉に安住せず、「私」に戻らなければなりません。また、相手の承認し得ない〈私〉を承認し(承認させる)ために、いったん相手の「私」を承認しておくという迂回路を取らなければならない。  差別的な表現を恐れず、順修行の順悟りが小乗的ならば、逆修行の逆悟りが大乗的ではないでしょうか。  私から見れば、「真逆」というより、順悟りは逆悟りの準備段階。

ウィトゲンシュタイン 「論理哲学論考」 序  

「この書物を理解するのは、おそらく、ここで表現された思想(あるいは、少なくとも類似した思想)を、かつて、一度は、自分自身で考えたことのある者ばかりであろう。ーつまり、本書は教科書ではないのであるー。本書を理会して読む者が一人でもあって、彼に楽しみを与える事ができさえすれば、本書の目的は達せられる。  本書は哲學の諸問題を扱い、ー私の確信するところではー、これら諸問題に対する問いの立て方自体*が、われわれの言語の論理における誤解に基づいている、ということを示す。  本書全体の意味するものは、概略以下の言葉に把握され得るであろう:語りうるものは明確に語らねばならない。しかし、語り得ぬものに対して、人は沈黙しなければならない・・・」 (armchairanthroposophyst.hatenablog.com/entry/20160312/1457754835 より引用)

1 世界とは、起きていることすべてである。

1.1 世界は事実の全体であり、ものの全体ではない。

1.11 世界は事実によって、そしてそれらが事実のすべてであることによって、規定されている。 ・・・

6.5 言い表わせない答えに対しては、問いもまた言い表わすことができない。謎は存在しない。問いが立てられるのならば、答えを与えることもまた可能である。

6.51 問うことのできないところで疑おうと試みるがゆえに、懐疑論は反論不可能なのではなく、あきらかにナンセンスなのである。問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立ち、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかを語ることができるところでしかない。

6.52 たとえ、科学で可能なすべての問いが答えられたとしても、生の問題はまったく手つかずのまま残されるだろうと、われわれは感じるのである。もちろん、その時もはや問うべき何ごとも残されていない。そしてまさにそれが答えなのである。

6.521 生の問題の解決は、問題の消滅によって気づかれる。(長い懐疑ののち、生の意義が明らかになった人々が、それでもなおその意義がどこにあるか語ることができない、その理由はまさにここにあるのではないか。)

6.522 もちろん言い表わせないものが存在する。それは自らを示す。それは神秘である。

6.53 語りうること、すなわち自然科学の命題--すなわち哲学とはなんの関係も無いこと--以外は何も語らぬこと。そして誰かがなにか形而上学的なことを語ろうとした時、そのたびに、あなたはあなたの命題のこの記号にいかなる意義も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい哲学の方法である。この方法はその人を満足させないだろう。--彼は哲学を教えられている気がしないだろう。--しかし、これこそが、唯一厳密に正しい方法なのである。

6.54 私を理解するひとは、私の命題をよじ登り--その上に立ち--それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。このようにして私の命題は解明的である。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)私の命題を超えねばならない。その時世界を正しく見るだろう。

7 語りえぬことについては、沈黙するしかない。

(tractatus-online.appspot.com/Tractatus/Meiryojp/4.html より引用)

 

ぼく:愛するって、どういうことかな?

ペネトレ:二つの種類の愛があるな。世界のはずれから世界の中心に向かっていく愛と、世界の中心から世界のはずれへ向かっていく愛の二つだ。…世界の中心っていうのは、もっと深い、すべての意味の源であるような、そういう中心なんだよ。…中略…もし、きみがだれかに対して、そういう世界の中心がそこにあるって感じたなら、それは愛だよ。

ぼく:ふーん。でも、中心の方からすみっこに向かう愛もあるんでしょ?

ペネトレ:そうさ、自分自身に、すこしでも世界の中心とつながっているっていう安心感があって、その安心感をすみっこにいるあの人にも分け与えてあげたいって感じたとすればね。それも愛だよ。

永井均『子供のための哲学対話』より)