流転流転

 以前、「流転」を読んだ方に「流転して何になるか」と聞かれたことがあります。どういうことかといいますと、「死んだあと、私やあなたは流転して、何に生まれ変わるのか」という意味でした。輪廻転生のことを「流転」だと思われたようです。

 仏教には昔から「四法印」という教えがあります。それは一切皆苦諸行無常諸法無我涅槃寂静の四つの教えです。
1)一切皆苦・私たちの存在は満たされない存在です。常に満足し切れないよ うにできています。
2)諸行無常・物事は移り変わってゆきます。これはここでいうすべてのものの「流転」の姿です。
3)諸法無我・物事には実態がありません。「私」もなければ「あなた」もありません。現実 につかみ所は存在しません。
4)涅槃寂静・このつかみ所のない、満たされない現実に、そのまま徹底して落ちつくことで す。

 仏教のこの基盤の上に立てば、「私が流転して何かに生まれ変わるか」という質問はもうはや無意味になってしまいます。流転する主体はそんざいしません。あえていうならば、「流転」が「流転」しているだけです。

 死んだ後、私たちがどうなるかというよりも、今ここ生きている私たちのありようがどうなっ ているのか、というのは問題ではないでしょうか。今ここ存在している私が死んだ後に別のものに移り変わってゆくのではなく、常に移り変わってゆく現実に沿って生きているのを仮に「私」と呼んでい るだけです。「私」というものは瞬時に移り変わってゆきます。

 元旦に当たって、今までの自分の悪い癖など捨て去り、新しい自分に生まれ変わろうとする願いも、こういう意味合いにおいて非常に大 事なことであり、そういう大事な機械を与えてもらえるのは本当に「オメデタイ」ことです 。しかし、元旦だけではなく、私たちが願っても願わなくても、毎日新しい自分に変わりつづけ ています。ただ、そこにハッキリした「誓願」というものがなければ、元旦に漠然と願っていたことをすぐ忘 れてしまい、業に流されるだけでしょう。
 業に流されるのも「流転」。
 誓願を立てて法輪を転じるのも「流転」。
 流転が流転している中、どっちを向いて流転するかが、各々に課せられている問題です。

流転⑥(2002年1月1日)