仏教との出会い

 一九六八年は「プラハの春」があり、西ベルリンやパリで学生運動がピークに達した年でもあります。「人間の顔をした社会主義」が期待され、大学生の間だけではなく、東西ヨーロッパの社会の広い層までがぼんやりとした夢と希望の空気に満ちていました。この年の三月に、私は長男として西ベルリンに生まれました。両親は二人とも三十歳でした。母はその前年に医学部の博士号を取ったばかりでしたが、父はまだ在学中でした。修士課程を取るために造形していた建築物のモデルは紛争の犠牲となったようで、私が生まれた後に工学部をようやく卒業しました。学生運動に参加していた二人でしたが、その後ベルリンを離れ一家は母の実家であるプロテスタント系の教会に引っ越しました。これも仏教徒となった今から思えば不思議な因縁です。

 父は設計事務所に勤め、母は病院で医師として働いていました。三、四 年後にそれぞれ二人の妹が生まれた後も、両親は共働きでした。家の二階には牧師である祖父と祖母が暮らしていました。町はブラウンシュヴァイクという、旧東ドイツとの国境にやや近い地方都市でした。フォルクスワーゲンの大きな工場があり、ドイツ最古の工科大学もここにあります。十一世紀の初めに建てられた教会は町の中心部に位置していました。周りの民家も十五、六世紀の旧家が立ち並びましたが、その九割が第二次世界大戦の空襲で破壊され、今は古い家と新しい家が無造作に縫い合わされています。妹たちとよくその教会裏で遊んで、両親が仕事から帰ってくるまでの時間を過ごしました。

 

 

お使い

 

 ある日のことです。母に初めてお使いに行くようにと言われました。少し離れた店でフライドチキンを買ってきて欲しいとのこと。下町のあちらこちらでちびっ子の私の目から見れば非常に怖いお兄さんたちが屯していましたから、一人で行ける自信はとてもありません。が、怒ると誰よりも怖いのがお母さんですから、「わかった」というしかありませんでした。

 いざ表に出ると、やはり彼らがいました。

「おい、坊や、何をしに行くんだい」

「お母さんのお使いだよ」

「何のお使いかな」

「チキンを買ってくるの」

「ふん、チキンか。それよりもこのチューインガムを欲しいと思わないか」

「うん、ほしいね」

 そこにはちょうど、ガシャポン式のガム自動販売機がありました。ただ、ガムを出すのに母から渡された十マルク札ではなく、その百分の一である十プフェニッヒの効果しか使えません。

「札じゃあ使えないから、十プフェニッヒと交換してやるよ」

「うん、ありがとう」

 とてもとくした気分でその一個のガムをかって、胸を張って家に帰った。金の行方を知った時、まるで狂った怪獣のように怒っていたお母さんの顔は今でも忘れられません。

 

ドクロ

 

 母には優しい面もありました。工事のため、教会裏の道路の石畳がユンボで掘り起こされた時に、そこに昔あった墓場の骨が出て、そこら中に散らかされました。現場監督がびっくりし、工事を中断し警察に連絡をしましたが、仕事から帰ってきた母は私を連れてそれぞれの骨を指しながら、それが人間の身体のどこ位置しているのか説明してくれました。道端にドクロも転がっていました。

 別の日、遊ぶ時に転んで膝から血を流したら、親切なおばさんがバンドエイドを張ってくれました。しかしは母それを後で剥がしてしまい、「空気に触れさせた方がよく治る」と言います。医師である母を私は心強く思いました。お母さんは何でも知っていると、疑いもしませんでした。

 

母の死

 

(少し唐突に感じます。もう少しネルケさんご自身の自己紹介があった方がいいと思います。例えば、私は一九六八年ドイツの西ベルリンに生まれました。父は○○、母は医師をしていました、というような。どういう家庭環境であったか、どのような町であったか、両親は典型的なクリスチャンだったのか、など。また、後に仏教に興味をもつきっかけとして、母親の闘病、死があったことを、簡単にもう少し触れて、以降の文章につなげる 以上の文書はどうでしょうか?)

 

 

母は突然、乳ガンの手術のため入院しました。病院のベッドの脇に立っていた私と二人の妹の前で、母は寝間着を捲り上げ、手術で乳房を除去した胸を私たち子供に見せました。その姿が今でも脳裏に焼き付いています。母は、幼い我が子にも現実の厳しさを見せようとしていたのでしょう。母が亡くなったのは、それから数週間後のこと。そのとき私は夏休みで、叔母の家で過ごしていたので、母の死に目には立ち会えませんでした。「お母さんはもう帰ってこない」と告げられたときの寂しさよりも、「あなたはまだ小さいから、お葬式には出なくていい」と大人たちに言われ憤慨したことの方が、記憶に残っています。

 母は三十七歳でした。あまりしっかりしない夫と幼い子供三人を残して、自分の親よりも早く一人でこの世を去らなければならない母の不安と悲しみを、母の年齢よりながく生きてしまった今初めて分かるような気がします。子供だったころは涙一つも流せませんでした。怖い面の裏に隠された優しさも、孤独な心の悔しさも……

 

 

 

神様はどこにいるの? 僕って誰?

 

  ごく身近に教会があるのですから、当然小さい頃から「神様」についての話を祖父母からよく聞かされました。でも、「神様って一体どこにいるの?」「どうして目に見えないの?」「どうして話はできないの?」と疑問に思うことばかりでした。キリスト教圏で育った子供なら誰でも一度は感じる疑問かもしれません。そうした疑問に対する、「あなたはまだ小さいから分からない。大きくなったら分かる」という大人たちの説明に納得のいくことはありませんでした。むしろ大人たちに騙されているような気持ちになり、「そんな答えでは納得できない!」と早くから神様や教会に失望していたような気がします。

 

 母が亡くなった後は一家がテュービンゲン

という南ドイツの小さな大学都市に移りました。そこでは一人きりで過ごす時間が増えました。学校から帰り、自分の部屋で過ごした時間の長いこと、長いこと。自分の殻に籠もり、することと言えば考え事ばかり。そのうち自然に「人間は一体何のために生きているのだろうか?」という疑問が浮かび、それにとらわれるようになりました。

 

「がんばって勉強しなさいと言う。なぜ勉強するかというとそれは将来いい就職をするためだという。就職したら今度は一生懸命に働かなければならない。仕事が楽しくて働くのではなく、お金を稼ぐために働く。なぜ金を稼がなければならないかというと、メシを食うため。なぜメシを食わなければならないかというと、生きるため……。しかし、人間死んだら同じではないか? そもそも生きる意味って何なんだろう? どうして生きなければならないのか?」

 そんな疑問を抱えるようになりました。また同時に、

「私の頭の中には絶えず色々な考えが堂々巡りしている。この考えはどこから来ているのだろうか? 考えているのは私自身だから、出所は『私』のはず……。でも、その『私』は一体何者か。頭の中に浮かぶ考えを捕まえることはできても、考えている『私』そのものを捕まえることができないのは、一体なぜか?」

という哲学的な難題にもぶつかりました。小学校三年生の頃です。十歳にも満たない子供の頭で解決できる問題では、当然のことながらありません。

 

 

 

 思い切って父親に疑問をぶつけてみましたが、「それは学校の先生に聞いてみたら」という答え。ならばと、学校の先生に聞いても「もう少し大きくなって、上の学校に進んだらそういうことが学べる」と言われるだけでした。「君はまだ小さいから分からない」という大人たちだって、本当は分かっていないんじゃないかと思うに至り、神様の居場所すら教えてくれない牧師や神父には、これらの問いをぶつけようとすら思いませんでした。かといって、自分の頭の中でいくら考えても、結局は何も分かりませんでした。

「私とは何か? 生きる意味とは何か?」――。疑問が疑問のまま残ったのです。

 

 

坐禅との出会い

 

そんな疑問を抱えていたためか、楽しい思い出もあまりありません。暗くて退屈な子供時代でした。今の日本で言えば、引きこもりに近い生活を送っていましたが、学校に行くのは楽しく、不登校児ではありませんでした。しかし、そのうち学校もつまらなくなり、授業の邪魔ばかりしていました。それでも生意気に成績は悪くありませんでしたので、学校から「ここじゃ、君は面白いはずがないから、特別なところに行ってみないか」と、実家から遠く離れた寮制の高校を薦められました。

 

 

 

 その高校に入学したのは十六歳のときです。結果的に、この高校で「仏教」に出会うことになります。

そこにはたまたま坐禅に親しむ先生がいて、「禅メディテーション・サークル」を開いていました。先生は元々カトリックの神父でしたが、神の存在について疑問を感じ、その疑問を明言し破門になっていました。その後、東洋のいろいろな瞑想法を試し、禅に辿り着いたようです。彼は寮の指導員として働きながら、寮生たちに坐禅を教えていたのです。

入学して間もない頃、私も「坐禅サークルに参加してみないか」と声を掛けられました。当時の私は「瞑想」といえば、インドのスリーラジニシという悪名高きグルのことしかイメージできませんでした。彼は三百六十五日、毎日新しいロールス・ロイスに乗りたいと言って、弟子たちに膨大なお布施を要求するなど、偽善的な宗教者であることが伝えられていました。「瞑想」なるものに悪印象しかなかった私は、「禅メディテーション」に関わろうとも思いませんでしたし、きっぱりと「坐禅には興味がありません」と断ったのです。

 しかし一週間後再び、「一度くらい坐禅を試してみないか」と誘われました。「僕は結構です」と再び断ったのですが、「一度もやってみないで、どうして興味がない、結構だと言えるのか。一度経験した上でないと、本当にいいものか悪いものか、分からないじゃないか」と説得され、こう言われれば理屈ではなかなか反論できません。一回瞑想をするだけでは洗脳されないだろうと思ったので、参加することにしました。ダメだったらすぐに辞めればいい、そんな軽い気持ちでした。ところが、一回だけでは済まなかったのです。

 

身体の発見

 

 一回で辞めるつもりで始めた坐禅にどうしてハマってしまったのでしょうか。

一言でいえば、坐禅に救われた思いがしたのです。それまでいくら頭で考えても見出せなかった、人生に対する疑問の解決や生きる方針の糸口がそこにはあると思ったからです。実際には、そのことに気づいたのは、しばらく後のことですが。

坐禅初体験が私にもたらしたのは「身体の発見」です。十六歳になるまで、私はずっと頭の中でしか生きていませんでした。「何のために生きるのか? 私って何なんのか?」、こういった自問を頭の中で繰り返しながら、生きることに対する疑問の解決を観念の世界で求めていました。自分の身体は「肝心要」の脳みそをいかすための道具に過ぎないと思っていましたので、まさか身体を発見し世界全体へ自分を投げ出すことにその解決があることは、思いもしなかったのです。

 

 

殻からの出口

 

 父親にも、学校の先生にもよく言われました、「お前の身体の姿勢は悪い」。その時、私はこう反論しました。「先生の話を聞いて、良い成績を取っていれば、それでいいじゃないか。首を垂らしていようが、机の下で寝転がっていようが、どうでもいいじゃないか」と。

しかし、坐禅して初めて分かったことは、姿勢が変われば、私の見ている世界も変わってき、私自身が変わってくるということです。

つまり「私=頭の中の主観」ではなく、「私=身体の一部分」という気づきです。身体の姿勢も、呼吸も、心臓の動きも、皆が私に影響を及ぼしているだけではなく、身体がそのまま私だといっても良いかもしれません。そしてこの私が「身体」という道具を通して世界と繋がっているのではなく、世界全体が私の身体であり、私と世界を切り離すことができないという発見もしました。

それまで自分が籠もっていた殻から脱出する方法をやっと見つけた気がしました。また殻からの出口は現実への入口でもありました。自分の人生を自分で歩もう、と初めて思ったのはその頃です。坐禅との出会いは、長い間忘れていた「からだ」の発見をもたらしました。「私が身体を持っている」というより「この身体が私」という気づきです。

 当時参加していた坐禅サークルのメンバーは、私の寮の先輩や同輩十五人ほどでした。週に何回か夕方に坐禅が行われましたが、坐った後、先生に必ず感想を聞かれました。「今日はどうだったか。自分を見つめることができたか」。先生はよく「まなか」という表現を使い、坐禅はこの「まなか」に立ち返ることだ言っていましたから、「今日は自分のまなかを見つけたか」とも聞いてきました。そして、私は毎回「まだ見つけていません。どこが自分のまなかということすら、全く分かりません。すみません」と答えざるをえませんでした。他の生徒たちは、「自分のまなかに美しい花畑を見つけ、そこを歩きました」とか、「自分のまなかに黄金の振り子が静かに振っていたので、それをじっと眺めました」とか、素晴らしい経験をしていたようですが、私にはそういった経験はありませんでした。しかし、自分のからだを感じ取るという気持ち良さを確かに感じていたので、しばらく坐禅会に通い続けました。

 

坐禅の先にあったもの

 

 坐禅会に通い始めて約一年経ったある日。先生は私の部屋に来て、椅子に腰掛け、話始めました。

「僕はもうここでの仕事を辞めようと思う。問題はサークルをどうするかということだが、後のことを君に任せたいのだが……」

私は耳を疑いました。十五人のメンバーのうち、「まなか」もなにも得ていないのは私だけです。どうしてこの私がリーダーに選ばれるのでしょうか。先生に自分が不適切であることを訴えましたが、「君はきっと大丈夫だ」と、譲りません。そこまで言われたら断るのも失礼だと思い、やってみることにしました。先生が寮を去った後、私が責任者としてサークルの部屋の準備をしたり、時間をはかったり、皆が坐禅がしやすいように努めましたが、はたして適任であったか今でも自信ははありません。なにしろ、そもそも坐禅とは一体何が正解なのか、日本で修行している今でも分からないのですから。

 禅について書かれた本を読むようになったのは、それからです。意外に思われるかもしれませんが、欧米では古くから鈴木大拙の本をはじめ、禅関連の本がたくさんあります。ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲル書いた(著者の名前はわかりますか?またその著者はどういう人か?)『弓と禅」という本も一九四八年に出版されてから広く読まれています。「悟り」という言葉を知ったのも関連の書籍を読むようになってからです。その言葉に出会い、「これは私がずっと探していた答えかもしれない、悟れば人生の意味も分かってくるはずだ」と思うようになりました。しかしなまじ知識を得たことで、最初は純粋だった坐禅が、「悟るための手段」となってしまいました。それから高校を卒業するまで、私は必死にこの「サトリ」を追いかけるために、坐禅を続けたのです。

 

悟りへの妄念

 

坐禅に夢中になり、日増しに仏教への関心が高まってきました。高校卒業を目前にして、将来は禅僧になるというビジョンをもつようになりました。高校を卒業して日本に渡り禅僧になるべきか、大学に行ってから日本の寺に入門すべきか、しばらく悩みました。ドイツでは小学校入学から高校卒業まで十三年間かかります。日本やアメリカより一年間長く、高校を卒業した時点ではもうすでに十九歳です。徴兵制度があるので、その後二年弱軍隊での訓練があり、大学も日本でいう四年制(アメリカのB.A.)ではなく、いったん入学すれば修士課程を得るまで卒業できません。私の両親のように三十歳前後まで大学に残る学生も決して珍しくない。しかし私にはそんな時間がないと思いました。すぐにでも日本に渡って、禅僧になりたかったのです。

 日本に行き禅僧になりたいと言うと、父親にも友達にも「やめた方がいい」と忠告されましたが、馬耳東風です。困った私は、坐禅をするよう誘ってくれた先生に相談することにしました

彼に打ち明けると、「まず世間で就職ができるような資格を取った方がいい。世間で通用しない、社会に馴染めないという理由で、仏門に入る人が多すぎるから」とアドバイスしてくれました。

生きていくためにはいずれ就職しなければならないという、ごく当たり前の考えはそれまでの私の頭を横切ることすらありませんでした。先生が言われたのは、就職が出来ず仕方なく寺で居候している人もいるが、お前はいつ社会に戻っても生活できるようにせよ、ということです。

そう言われた私はびっくり仰天しました。

一般社会で生活ができない人が、仕方なく禅寺でイソウロウ!?

私が想像していたのは全く逆です。「禅寺」はむしろエリート的な世界にあり、一般社会をはるかに超越した世界だと思っていました。そこで修行している禅僧たちは、俗人の分からないことをすべて見通すスーパーマンのようなものではないのか。禅が分かればすべてのことが可能なはずではないのか。何で今から就職を心配しなければならないのか……。

禅的生活の理想に燃えていた青年にはちんぷんかんぷんです。しかし、先生に「やっぱり少し待った方がいい、まず大学に行け」と強く諭されたので、迷いながらも大学への進学を選びました。

 今から思うと、もし当時十九歳だった私がすぐに日本で師匠を捜し、弟子入りして、仏門に入ったとしても、うまくいかなかったと思います。それよりは、大学に入学して日本語をある程度勉強して、道元禅師の著作をはじめ禅の基本について多少なりとも学習してから禅僧になる、というプロセスを経た方が良かったと思います。詳しくは後で述べますが、十九歳の私は、日本の仏教がどれほど堕落し、デタラメな禅僧がどれほど多いか、想像もできなかったのですから。

 

 

最初の来日

 

 ドイツの高校の卒業は六月です。大学入学は四月と十月のどちらでも可能で、それまでの期間何をして過ごすかはそれぞれが決めることができます。当時はまだアメリカ、イギリスとフランスの占領下にあった西ベルリンに住んでいれば、軍隊に行かなくても済みました。それは西ベルリンがまだ正式にはドイツの一部分ではなかったからです。私も当時、西ドイツのパスポートではなく、西ベルリンの特別なパスポートをもっていました。そこで(なぜ西ベルリンに住んでいると軍隊に行かなくてよいのですか?)、十月までの約三ケ月間を日本で過ごすことにしました。

大学に行く前に少しでも日本の文化に触れて、禅の心を学びたいと思いました。鎌倉や奈良の大仏を参拝したり、京都の南禅寺竜安寺の庭園も拝見したり、できれば本物の禅寺で坐禅がしたいと期待に胸を膨らませました。

栃木県宇都宮市にあるSさん宅にホームステイをしました。ところが、私を受け入れてくれたSさんのお宅は、熱心なキリスト教の信者だったのです……。

若かった私が日本に「禅の心」を求め、大いに期待していたのと同じように、Sさんたちもまたプロテスタントキリスト教の「本場」であるドイツから来た私に期待していたようです。彼らは私を地元の教会に連れて行き、ミサの後には心配そうに聞いてきました。

「どうですか、日本のキリスト教は? ドイツと同じですか、それとも違いますか? ドイツの方がやはりしっかりしていますか?」

……私には答えようがありませんでした。おそらくドイツよりも日本のクリスチャンの方がしっかりしているとも思えましたが、そもそも私はキリスト教にうんざりして日本に来ていましたので、日本のキリスト教がどうであるかまったく興味がない。そうではなく、日本の禅、そして仏教について知りたかったのです。しかし「お寺に行きたい。坐禅がしたい」と頼んでも、Sさんは「そんなものはつまらないよ、坐禅なんかしなくてもいい。あなたの国のキリスト教の方が優れている」と取り合ってくれません。また、仏教にかかわらず日本文化なら広く何でも知りたいと思っていた私が、尺八や琴といった邦楽を聴きたいと言うと、Sさんはとうとう我慢できなくなったのか、ベートーベンのレコードをかけて「若者よ、これこそ本当の音楽だ。黙って聞きなさい!」と怒り出す始末です。お互い期待が外れてがっかりしたのは、言うまでもないことです。

 

 

高かった期待と大きかった失望

 

 

 仏教に無関心だったのは、Sさんだけではありませんでした。

知り合った日本人の若者に仏教のことを聞いても、大概は「知らない、興味ない」と言うばかり。「おかしいな、ここは『禅の国』、金閣寺銀閣寺の建つ日本ではないか」と不思議に思いましたが、誰も真剣に取り合ってくれません。坐禅のできるお寺を探しても、なかなか見つかりません。大きな段ボールにマジックペンで「KYOTO」と書いて、二日間かけて宇都宮からヒッチハイクで京都まで行きました。京都に来れば、本当の日本の文化、禅が見つかるはずだと思ったのです。しかし坐禅を体験出来たのは、龍泉庵という妙心寺塔頭一ケ寺だけでした。他のお寺は、檀家さん以外はお断りと硬く門を閉めていたか、観光寺として入場料を取って石庭を案内するかのどちらかでした。それでも私は、本当の仏教は見えないところに隠れているのではないかと血眼になって探したのですが、十九歳の私には見つけることができませんでした。見つからなかったけれど、「本物の仏教、本物の禅」はきっと日本のどこか山の奥にでも潜んでいると疑いませんでした。期待通りにはいかず少々がっかりはしましたが、日本語をしっかりと身につけてから再挑戦しようという思いを胸にドイツに帰りました。

 

せっかく日本に生まれて

 

 なぜ日本人は仏教に無関心なのか。当時は不思議でなりませんでしたが、今から思えば、それも分かるような気もします。日本の現代仏教は西洋のキリスト教と同じくらい、あるいはそれ以上に堕落しているからです。日本のお坊さんはもはや一般の人に仏教を広める聖職にあらず、単にお寺の管理人兼葬式法要を執り行うサービス業に成り下がってしまいました。日本の若い人が既成仏教に救いを求めないのも、不思議でも何でもなく、当然のことです。それは、若い日本人が自分の生き方に悩み苦しんでいないからではなく、お坊さんが悩み苦しみを超えた生き方を提唱していないからです。実際、私と同じような悩みを抱えた日本人は多くいると思います。

「どう生きたらよいか、分からない。なんのための人生か? そもそも、自分とは……」

みな頭の中ではそう悩みながら、自分の身体を忘れてしまっています。特にインターネットや携帯電話の普及により、脳とメールを打つ指しか動かさなくなった日本人も多いのではないでしょうか。

しかし宗教家も教育家も、生き方どころか身体の大切さすら教えてくれません。ドイツに生まれ育った私は、たまたま禅と出会うことになり、人生の方向が決まりました。私は仏教に救われたといってもいい。けれど、せっかく仏教国である日本に生まれながら、日本の青年たちはかくも仏教との縁がないのでしょうか。

 

タオ自然学

 

 計画通り1987年の秋にはドイツに戻り、ベルリン自由大学の理学学部と文学部の両方に入学しました。卒業するのは難しいが入学するのが自由というドイツの大学では、二つの学部に同時に籍を置くのは珍しいことではありますが、不可能ではありません。当初は物理学、哲学と日本学を中心に勉強しました。日本学を選んだのは言うまでもなく、日本語を学び、あらためて日本に行くための準備をするためです。哲学を専攻したのは、仏教を理解するためには西洋哲学も勉強した方がよいと思ったからです。「自分とは? 人生とは?」といった根本的な問いを扱っているのが本来の哲学ですから。物理学を選んだのは当時流行していた「タオ自然学」という本の影響です。「現代物理学の先端から〈東洋の世紀〉がはじまる」という主張が象徴的で、素粒子もこの大宇宙も、中国の老荘思想や仏教と同じ法則に従って動いているのではないか、と議論されていました。

「物理学の道を進んでも、哲学の道を進んでも、あるいは坐禅しても、最終的には同じ『悟り』が得られるのでは? それならばこの三本の道を同時に進み、新しい世紀をこの俺が創造し、できれば将来ノーベル賞も取ろう!」

と意気込み、現代物理学と東洋思想の類似性を追求しようと思ったのです。今思うとまことに浅い考えでは恥ずかしいのですが、元々数式も物理も好きだったので、その道に新たな可能性を感じ、狂喜乱舞し、我が身を弁えることを知らなかったのです。

 

勉強の毎日

 

 ドイツの大学では非常にのんびりと勉強ができます。十年間も十五年間も大学生生活を続ける人は決して珍しくありません。しかし私には心の焦りのようなものがありました。なるべく早く単位を揃え、卒業したかったのです。朝と晩とそれぞれオートミールに牛乳をかけるだけという、金も時間もかからない二度の食事を済ませて、昼はずっと大学に詰めていました。勉強の他にはほぼ毎日、近くにあった坐禅道場に通うだけの日々です。何しろ道の向こうには〈悟り〉があり、私を待っているはずですから。それ以外のものは必要ありませんでした。

 入学して二年間で基礎的な勉強を終え、修士課程の専門的な研究に入ります。日本学、哲学と物理学のそれぞれの試験に通ったもの、それまでの自分の考えの甘さに早くも気付きました。これから素粒子のことを専門的に研究するのであれば、そのことだけに集中して頭の神経回路を数年もフル回転させていかなければなりません。素粒子について真剣に学ぶのであれば、「タオ」だの「東洋の世紀」だの、そんな周り道は許されません。哲学にしても日本学にしても同じです。本気でその道を極めようとしたら、その傍らで物理学科の地下の実験室でデータ収集するなんてとてもじゃないけど無理なことです。いずれかの分野で頂点にいたる道を最後まで登り続けるのであれば、道を一つに絞らなければなりません。そして私は「禅」つまり日本学の勉強一本に絞ったのです。 腹は決まったものの、少しでも早く大学を卒業したいという焦りと同時に、再び日本で道を求めるのに修士課程が終わるまではとても待っていられないという思いも募りました。理屈だけの勉強にはもうウンザリしていたからです。そこで一年間京都大学で留学するつもりで、再び来日することにしたのです。