神との対話

神:五分後に、永井均の《私》を消滅させるぞ!

私:そんなことをしても、世界は全く変わらない。どうぞ、ご自由に!

神:実は、五分前に永井の《私》をすでに消滅させてやったぞ!

私:だから、そんなものを消滅させたところで、何も変わらないって。現に世界はこうして開闢されているではないか?

神:五分後に、永井均ネルケ無方のそれぞれの《私》を交換するぞ!

私:それはちょっと嫌だな。でも、たまには面白いかも? いや、交換した後〈私〉には交換された気づきなどないはずだから、そうされても平気か。

神:五分前に、すでに永井とネルケを交換させてやったぞ!

私:まじか!? と言うことは、〈私〉はついさっきまで永井だったってこと? 記憶も体も思いもネルケだから、〈今〉はコイツを生きるしかしょうがないか。というか、永井よりコイツの方がマシな気もする(永井がどう思っているか、しらんけど…)

神:五分後に、ネルケ無方の《私》を消滅させるぞ(もちろん、ネルケ無方と言う人物だけはそのままにしてやる)

私:ちょっと待って! 永井均との交換はともかく、それだけはなんとか勘弁してほしい。だって、そんなことをされたら世界の終わりだよ?!

神:もう遅い。五分前に、実はすでにネルケ無方の《私》を消滅させてやったぞ!

私:嘘バレバレだ! 〈私〉はここにあり、世界は現にここから開かれているではないか! どちらかと言えば、お前の存在が疑わしい。お前こそ、おれの空想にすぎない気がしてきた。もうだまされないぞ!

私:あるいはそのネルケ無方とかいうやつの《私》を消滅させることができたとしても、この〈私〉だけは消滅させることができない!

(現に、こうして自問自答している限り)

https://twitter.com/MuhoNoelke/status/1287508020042162176より引用)

 

自由意志とは何だろう?

あるのか、やはりないのか?

時と場合によりけりなのか?

 

永井哲学で考えていくと、

〈私〉→現実性→現在→現に〈自由〉に行動している

あなた→可能性→未来→「可能な現実性」として、《自由》に行動していると見なすことができる(見なさざるを得ない?)

三者→必然性→過去→自由意志など持ちえない

ということになりそうだが、どうだろう?

 

〈私〉が成立するためには、自由意志は必然条件なのか?

自由意志がそこに働いていれば、〈私〉が突出する(働いていなければ、突出しない)?

したがって、他者には原理的に自由意志などありえないのか(百歩譲って、第二人には《自由》があったとしても)?

どうも、そうじゃない気がする・・・

 

神との問答、自由意志バージョン。

 

神:俺は実は、五分前に永井均の自由意志を消滅させてやったぞ!

私:そいつには今まで、そんな自由意志などあったっけ? 俺は前々から、彼のことを「永井ボット」だと思って彼のツイートを読んでいたけど?

神:五分後に、ネルケ無方の自由意志を消滅させるぞ(もちろん、彼の「思い」や「意図」だけはそのままにしてやる)!

私:嫌な予感がしないでもないが、そこで何が変わるというのだ?〈私〉にとっても、今までと何も変わらない気がする。〈私〉が変化に気づかないのでなく、実際に変化などないのでは?

神:五分前には、すでにネルケ無方の自由意志を消滅させたぞ!

私:それにまったく気が付かず、失礼したね。しかしそれが本当であったとしても、こうして「思え」「意図」「動いている」と直接に感知することが現にできている間、その自由意志なんか、なくても困らないよ!むしろすっきりした気分だ!

 

とりあえずの結論:

自由意志などなくても、私は困らない。もちろん、あっても困らないが。

仮にネルケ無方であるこの「私」に自由意志があるというのなら、そのネルケ無方が〈私〉ではなくなった場合でも、自由意志を持ち続けることはできるのでは?

自由意志:「動かそうと思えば、動かせる」「発話しようと思えば、しゃべれる」

〈私〉の自由意志:現にこうして動かそうと思えば、動かせる、発話しようと思えば、しゃべれる。

あなたの自由意志:ほら、動かそうと思えば、動かせるじゃないか?思ったことを、実際にしゃべっているじゃないか? 

三者の自由意志:(現にではないが)私やあなたと同じように、動かそうと思えば動かせる、思ったことがしゃべれている。

↑ こう考えると、自由意志のありなしには、人称は関与していないようにも思える。 

ちなみに、私の理解では青山拓央説では

第一人→無自由(afree)( ただ単に「そうなっている」?)

第二人→自由(違う行為もできていた)→そこから「第二人の第二人」である私も、そういう意味で責任を持っており、自由であると言わざるを得ない

第三人→決定

(間違っていればすみません!)

どうも、一人称と二人称の優先順位は、永井哲学と逆(まず「あなた」の自由意志ありき)。

あなたの「あなた」としての私にも、はじめて〈自由〉は立ち現れる。

ただ「無自由」と「決定」の違いがうまく理解できない。決定論によれば、人間はみな「不自由」ではなく、「無自由」と見なされているのでは?

(とりあえず終わり、https://twitter.com/MuhoNoelke/status/1287539293766860800より「引用)