「村上春樹先生、こんにちわ。
兵庫県の日本海側の山寺で住職をしているドイツ人です。先生の長編小説を何冊か拝読して、そのなかには極めて受動的に生きている主人公が多いというふうに見受けられました。本に向かって思わず、「もっとしっかりせよ」「オマエ、何がしたいのか」「自分の意思がないのか」と声をあげたくなることもしばしばありました。主体的に行動しているというよりも、周りの働きかけによって動かされている彼らは、典型的な草食系日本男子と思いました。草食系は仏教にも通ずるあり方だと私は思っています。なにせよ、「【私】というものはない」というのが仏教の大前提です。私たちがふだん【私】と思っているものは、ありとあらゆる要素に形成されているまぼろしに過ぎません。そういう意味では、【私】にあまり固執していない先生の小説の主人公たちは仏教的な世界観を生きている気もいたします。
しかし仏教では「自分のよりどころは自分のみ」とも言います。【私】を否定していながら、主体性を重要だと考えているのも仏教です。先生の小説の中では、主人公を囲んでいる脇役のなかに主体的に生きようとする人物もありますが、主人公自身にはそういう主体性を感じないのはなぜでしょうか。
先生の小説の主人公たちが読者に
「人生って、そんなにばんばらなくてもよい。あるいはこういう受動的な生き方もあるよ。世界じゅうの人々が【私】を手放して、より草食的な生き方をすれば世界はもっと平和になる。たぶん」
と呼びかけているのでしょうか。 あるいは逆に
「世の中には右や左に流されて生きていている人であふれているが、彼らは一体何をよりどころとしようとしているのか」
という問題提起をしようとしているのでしょうか。 先生ご自身は主体性について、どうお考えでいらっしゃいますか。また自由意志(あるか、ないか)について、お考えをお持ちでしょうか。
それとも、先生はご自身の作品についてはそんなことは一切考えず、大いなるインスピレーションのもとで書かされるままに、主人公たちと同じくらい受動的な姿勢で、内なる声に耳を傾けながらお書きになっているのでしょうか。 長々とすみません。先生の小説を小難しく考えすぎているのは私だけでしょうか。」