智源寺僧堂で「現成公案」講義(7)

正法眼蔵・現成公案

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。 萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。 佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。 しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。 迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。 さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。 諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。 しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。

身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。 一方を證するときは一方はくらし。

佛道をならふといふは、自己をならふ也。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。 萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。 悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。 法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。 人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を亂想して萬法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に歸すれば、萬法のわれにあらぬ道理あきらけし。

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正法眼蔵・全機(前半)

諸佛の大道、その究盡するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆゑに、出生死あり、入生死あり。ともに究盡の大道なり。捨生死あり、度生死あり。ともに究盡の大道なり。現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし。 この機關、よく生ならしめよく死ならしむ。この機關の現成する正當恁麼時、かならずしも大にあらず、かならずしも小にあらず。遍界にあらず、局量にあらず。長遠にあらず、短促にあらず。いまの生はこの機關にあり、この機關はいまの生にあり。 生は來にあらず、生は去にあらず。生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しかあれども、生は全機現なり、死は全機現なり。しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。しづかに思量すべし、いまこの生、および生と同生せるところの衆法は、生にともなりとやせん、生にともならずとやせん。一時一法としても、生にともならざることなし、一事一心としても、生にともならざるなし。 生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかひわれかぢをとれり。われさををさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。この正當恁麼時を功夫參學すべし。この正當恁麼時は、舟の世界にあらざることなし。天も水も岸もみな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。このゆゑに、生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。舟にのれるには、身心依正、ともに舟の機關なり。盡大地、盡虚空、ともに舟の機關なり。生なるわれ、われなる生、それかくのごとし。

正法眼蔵・都機より

釋迦牟尼佛、金剛藏菩薩に告げて言はく、譬へば動目の能く湛水を搖がすが如く、又、定眼のなほ火を廻轉せしむるが如し。雲駛れば月運り、舟行けば岸移る、亦復是の如し。…【中略】… いま佛演説の雲駛月運、舟行岸移、あきらめ參究すべし。倉卒に學すべからず、凡情に順ずべからず。…【中略】…いま如來道の雲駛月運、舟行岸移は、雲駛のとき、月運なり。舟行のとき、岸移なり。 いふ宗旨は、雲と月と、同時同道して同歩同運すること、始終にあらず、前後にあらず。舟と岸と、同時同道して同歩同運すること、起止にあらず、流轉にあらず。たとひ人の行を學すとも、人の行は起止にあらず、起止の行は人にあらざるなり。