典座教訓講義①

2021年7月26日、宮津市の智源寺僧堂での「典座教訓」①

 

「典座教訓」(1237)

「弁道法」(1244-1246?)

「赴粥飯法」(1246-1247?)

「衆寮箴規」(1249)

「対大己五夏闍梨法」(1244)

「知事清規」(1246)

 

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   觀音導利興聖寶林禪寺比丘道元

佛家に本より六知事有り、共に佛子たり、同じく佛事を作す。

中就なかんずく、典座の一職は、是れ衆僧の辨食を掌つかさどる。

『禪苑清規ぜんねんしんぎ』に云く、「衆僧を供養す、故に典座有り」と。

いにしえより道心の師僧、發心の高士、充て來るの職なり。

蓋し、一色いっしきの辨道に猶る歟

若し道心なき者は徒らに辛苦を勞して、畢竟、益無し。

『禪苑清規』に云く、「須く道心を運めぐらし時に随つて改變し、大衆をして受用安樂ならしむべし」と。

昔日そのかみ潙山いさん、洞山とうざん等、之れを勤め、其の餘の諸大祖師も、曾て經來れり。

所以に世俗の食厨子じきずし、及び饌夫せんぷ等に同じからざる者か。

山僧、在宋の時、暇日、前資勤舊ぜんしごんきゅう等に咨問するに、彼等聊いささか見聞を擧し、以て山僧が爲に説く。

此の説似は、古來有道の佛祖の遺す所の骨隨なり。

大抵、須く『禪苑清規』を熟見すべし。

然る後、須く勤舊子細の説を聞くべし。

 

 

1) 仏法僧を敬うや否や。 2) 善知識を求むるや否や。 3) 菩提心を発悟するや否や。

118)一生の事辨ずるや否や。 119)大自在を得るや否や。 120)大涅槃を証するや否や。 『禅苑清規・一百二十問』

 

夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し 『禅苑清規・坐禅儀』

 

(一)菩提心を発すべき事 右、菩提心は、多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名づくと。『学道用心』

 

今生に發心せずんば何の時を待てか行道すべきや。今強て修せば必ずしも道を得べきなり。『随聞記6-16』

學道の人も、初めより道心なくとも、只しひて佛道を好み學せば、終には實の道心も起るべきなり。『随聞記6-7』

無道心の人も、一度二度こそつれなくとも、度度聞ぬれば、霧露の中に行が如く、いつぬるヽとも覺へざれども、自然に衣のうるほふが如くに、良人の言ばをいくたびも聞けば、自然にはづる心も起り、實の道心も起るなり。『随聞記5―15』

 

問て云く、破戒にして虚く人天の供養を受け、無道心にして、徒に如来の福分を費やさんより、在家人に随ふて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何ん。

答て云く、誰か云ひし破戒無道心なれと。只強て道心を発し佛法を行ずべきなり。いかに況や持戒破戒を論ぜず、初心後心を分かたず、齊しく如来の福分を与ふとは見へたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見へず。誰人か初めより道心ある。只かくの如く発し難きを發し、行じがたきを行ずれば、自然に增進するなり。人々皆な佛性あり。徒づらに卑下すること莫れ。『随聞記1―16』

 

一 道心ありて名利をなげすてんひといるべし。いたづらにまことなからんものいるべからず

一 堂中の衆は乳水のごとくに和合して、たがひに道業を一興すべし。いまはしばらく賓主なりとも、のちにはながく佛祖なるべし 『重雲堂式』

 

佛道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人にしられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。おほかた、おろかにあしき人のことばを信ぜず、きかざるなり。また、わがこころをさきとせざれ、佛のとかせたまひたるのりをさきとすべし。よくよく道心あるべきやうを、よるひるつねにこころにかけて、この世にいかでかまことの菩提あらましと、ねがひいのるべし。

世のすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、世のはかなく、人のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。われは世のはかなきことをおもふと、しられざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、我がいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちもをしまざるべし。又、つねにけさをかけて坐禪すべし。坐禪は三界の法にあらず、佛祖の法なり。『正法眼蔵・道心』

 

釈迦牟尼仏(のたまわ)く、明星出現時(みょうじょうしゅつげんじ)、我与大地有情(がよだいちうじよう)、同時成道(どうじじょうどう)。しかあれば、発心修行(ほっしんしゅぎょう)、菩提涅槃(ぼだいねはん)は、同時の発心修行、菩提涅槃なるべし。これ発阿耨多羅三藐三菩提なり。一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり、修証転法もまたかくのごとし。坐禅辨道これ発菩提心なり。発心は一異にあらず、坐禅は一異にあらず、再三にあらず、処分にあらず。『正法眼蔵・発無上心』

 

佛祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して斷絶せず、發心、修行、菩提、涅槃、しばらくの間隙(かんげき)あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強爲(ごううい)にあらず、他の強爲にあらず、不曾染汚(ふぞうぜんな)の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。                    『正法眼蔵・行持』

 

おほよそ、心三種あり。一つには質多心(しったしん)、此の方に慮知心と称す。

二つには汗栗多心(かりたしん)、此の方に草木心と称す。

三つには矣栗多心(いりたしん)、此の方に積聚精要心(しゃくじゅうせいよう)と称す。

このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。

菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。『正法眼蔵・発菩提心