『辨道話』を読む⑥

辨道話

諸佛如來、ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり…。

ここをもて、わづかに一人一時の坐禪なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに。無盡法界のなかに去來現に、常恒の佛化道事をなすなり…。

(十八問答・第一問) いまこの坐禪の功德高大なることをききをはりぬ。おろかならん人うたがふていはん、佛法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禪をすすむるや。

しめしていはく、これ佛法の正門なるをもてなり。

(十八問答・第二問) とふていはく、なんぞひとり正門とする。

しめしていはく、大師釋尊、まさしく得道の妙術を正傳し、また三世の如來、ともに坐禪より得道せり。 ここのゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禪より得道せるなり、ゆゑにいま正門を人天にしめす。

(十八問答・第三問) とふていはく、あるひは如來の妙術を正傳し、または祖師のあとをたづぬるによらん、ままことに凡慮のおよぶにあらず。しかはあれども、讀經念佛は、おのづからさとりの因縁となりぬべし。ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてかさとりをうるたよりとならん。

しめしていはく、なんぢいま諸佛の三昧、無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはん、これを大乘を謗する人ととす。まどひのいとふかき、大海のなかにゐながら、水なしといはんがごとし。すでにかたじけなく諸佛受用三昧に安坐せり。これ廣大の功德をなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを。おほよそ諸佛の境界は、不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはんや不信劣智のしることをえんや。ただ正信の大機のみよくいることをうるなり。不信の人はたとひをしふとも、うくべきことかたし。靈山になほ退亦佳矣(タイヤクケイ)のたぐひあり、おほよそ心に正信おこらば、修行し參學すべし。しかあらずば、しばらくやむべし、むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。

白隠禅師坐禅和讃

衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく  

衆生の外に仏なし 衆生近きを不知(しらず)して  遠く求むるはかなさよ

譬(たとへ)ば水の中に居て  渇を叫ぶがごとくなり

長者の家の子となりて  貧里に迷うに異ならず

六趣輪廻の因縁は  己が愚痴の闇路なり

闇路にやみぢを踏そへて  いつか生死をはなるべき

夫れ摩訶衍の禅定は  称歎するに余りあり

布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等

其品多き諸善行  皆この中に帰するなり

一座の功をなす人も  積し無量の罪ほろぶ

悪趣いづくにありぬべき  浄土即ち遠からず

辱(かたじけな)くも此の法(のり)を  一たび耳にふるゝ時

さんたん随喜する人は  福を得る事限りなし

いはんや自ら回向して  直に自性を証すれば

自性即ち無性にて  すでに戯論(げろん)を離れたり

因果一如の門ひらけ  無二無三の道直し

無相の相を相として  行くも帰るも余所ならず

無念の念を念として  謡うも舞ふも法の声

三昧無碍の空ひろく  四智円明の月さえん

此時何をか求むべき  寂滅現前するゆゑに

当所(とうじょ)即ち蓮華国  此身即ち仏なり