日曜野外坐禅&随聞記の勉強会40

資料:https://drive.google.com/file/d/1hNZ0wwEKeXNtbIqTQhA0OQImTnxXOGFm/view?usp=sharing

チャット記録:

00:16:43 島   雄: ちょっと遅れているみたいですね……

00:17:21 今橋 勇蔵: そうですね。座禅の場所を変えたからですかね。

00:17:46 島   雄: あ、そうなんですか。

00:19:49 今橋 勇蔵: 今のところは寒いから、暖かいところに変えたそうです。

00:22:22 島   雄: 寒時寒殺、熱時熱殺

00:23:51 火童: まあそれはそうなんでしょうが、老師もわざわざ寒いところに集合して皆を苦しめたくはないでしょう…

00:24:02 火童: お

00:25:15 mori: おはようございます

00:32:51 ハル: 高橋さん、お久しぶりです!お元気そうでなにより😃

01:16:17 Kei-ichiro Imazai: 他者が私に向かって言う「天地いっぱいの自己」に対する疑問!もっともだと思います。

01:24:13 Kei-ichiro Imazai: 「母が作る雑煮」でもなく「祖母が作る雑煮」でもなく、「ウチの雑煮」という感覚に近いでしょうか。

01:28:53 島   雄: 「ゲームから下りた人」(ほとけ)から見れば、他己は他人であると同時に自己です。なんの矛盾もありません。「ゲームから下りていない人」(凡夫)からみれば、あくまで他人は他人であって自己でなく、自己は自己であって他人ではありません。ですから「他己」は矛盾と見えます。「ゲームから下りた人」の見方を、「ゲームから下りていない人」の価値観で解釈することに、基本的な問題があるように思うのですが……。私も「ゲームから下りていない者」なので、よくわかりません。

01:31:40 Masumi Sakikawa: 「自分『だけ』が良くなりたい」という他者と、どう協働していけばよいのかが分かりません。右の頬と左の頬のはなしになるのでしょうか?

01:34:37 火童: 自己と他者の円は重ならないように思います。

01:37:35 火童: 「いいもの」として他者の世界に現れること、が慈悲ということでしょうか?

01:38:10 島   雄: 「おそらく」、「ゲームから下りた人」から見ると、重なっているのではないでしょうか。犬に仏性が「ある」と同時に「ない」、即心是仏であると同時に悲心非仏であるように。

01:38:48 島   雄: すみません、「非心非仏」の間違い。

01:41:23 Kei-ichiro Imazai: 無我を徹底すると、自分はいなくなるので、自他の区別もなくなる、その結果「天地いっぱいの自己」になる。それを理屈でなく実感させるのが坐禅のように思います。

01:41:59 島   雄: 全く同感です。

01:43:52 Kei-ichiro Imazai: 他で満たされた自己という見方はとてもわかりやすいと思います。これは永井哲学の私に関する議論と相容れないように思われます。

01:44:50 火童: 天地いっぱいの自己なんだけど、その天地いっぱいに満たされているのは他であると。

01:47:49 今橋 勇蔵: 我々は、無分別の世界に生きられるのでしょうか。何も人しい

01:48:07 島   雄: 修証義に「窮亀を見、病雀を見しとき……」とありますね。池にはまりそうになった子を助けるときに「慈悲とはなぜか」なんて考えますかね。

01:48:07 今橋 勇蔵: 何も認識できないような気がします。

01:48:26 Kei-ichiro Imazai: 慈悲は、かなり消極的なものではないでしょうか。積極的に人助けなどで行動すると言うよりは、慈しみ、苦しみを共有すると言う程度のものが基本であるように思います。

01:50:08 Kei-ichiro Imazai: 自未得度先度他にしても、得度であって現実世界における救済ではない。救いの中身に慎重であることが必要ではないでしょうか。

01:52:55 島   雄: ネルケ老師が、山や寺にこもらず、大阪でこうしてわれわれのために勉強会を開いておられること、すごい慈悲の心と思います。理屈抜きに。

01:53:52 Kei-ichiro Imazai: 不遜な物言いですが、ネルケ老師の活動は、正当な菩薩行だと思います。

01:54:45 火童: 今日は時間が足りないなあ

01:55:06 島   雄: きょうも!

01:57:07 Kei-ichiro Imazai: 笑

02:02:28 Kei-ichiro Imazai: 他者に対する慈悲は修行の一貫、あるいは世俗諦の営みではないでしょうか。自未得度先度他、とすれば、誰も得度していないので、究極的な空の勝義諦では必要ないのかな…。

02:06:28 火童: ぼくから見ると無方老師はシュールな外人です。笑

02:07:16 Kei-ichiro Imazai: やはり大乗仏教は、ワンネスを経験して実世界はかりそめの世界だから、そんな世界に背を向けると言う態度を潔しとしない人たちが作った仏教なのでしょうね。だから悟りは後回し、宙ぶらりんな状態を受け止めて、衆生と共に生きろと…。

02:08:34 島   雄: え? 自分が悟らずに人が救える?

02:08:37 Kei-ichiro Imazai: いや、ワンネスの経験とは限らないかもしれないですが、単に現世を無価値と見る姿勢と言えばいいでしょうか。

02:09:34 Kei-ichiro Imazai: 悟ってしまったら、おそらく人を救うことも価値がなくなる可能性があるのではないでしょうか。苦しい世界を生きるからこそ、救済が必要なのではありませんか。

02:16:42 Kei-ichiro Imazai: 石ころが二つあって、それらが落ちていたとしても何も問題がない。それぞれが天地いっぱい(笑)。石ころには自分がないから…。

02:19:52 Kei-ichiro Imazai: ありがとうございました。

02:19:58 mori: ありがとうございました。 #禅 #正法眼蔵 #随聞記