福は外、鬼は内

 自分さえよければいい、というのは私たち人間の悲し い根性ですが、そういう根性に気付き、転回させること に宗教の要があると思います。
 ところが、下手をすれば宗教の中にまで「自分さ えよければいい」という根性を持ち込んで、自分の信仰 を間違った方向へ向けることがあります。

 たとえば、受験生が神社や寺で買い求めてい る「合格祈願」の絵馬。合格するかしないかによって、 自分自身の人生は大きく左右されますから、不安でいっ ぱいになって「必勝」を願うのもムリありません。ただ 、合格したいのは自分一人ではありません。受験してい る大勢の人たちの中、合格しなくてもよいと思っている 者はいないはずです。皆は受かりたいのですが、実際に 受かる者もいれば落ちる者もいます。そこで「必ず○× 大学に受かりますように」と祈願することは、結局、自 分ではなく他の人が落ちればいいと言うことです。
 しかし、そんなことはどうでもよく、自分こそ受 かりさえすればいいと思っているのは、やはり私たち人 間の根性ではないでしょうか。その根性をいっぺんひっ くり返したらどうなるでしょうか。

 「オマエのような者が試験に通らなかったら 、もっとよい者がいるのだから喜んだらよいじゃないか 。オマエが通るなら、他によい者がおらんのだから、オ マエのようなつまらんヤツが多いのは社会のために悲し まねばならん。」(澤木興道老師)

 人間はなかなかあれだけ自分には厳しくなれ ません。
 節分の「福は内、鬼は外」も同じです。鬼だらけ の世の中、私たちは自分こそ幸福になれればいい、鬼は 別の所に行けばいいと思っていますが、宗教的な志はそ の正反対でなければなりません。皆さえよければ、自分 はどうなってもいい。皆が天国へ行けたら、自分一人は 地獄に堕ちてもいい。この志をもつ者を大乗の菩薩と言 いますが、節分に当たって、菩薩のスローガンは

 「福は外、鬼は内」

でなければなりません。

 

座禅と坐禅

 禅の基本は坐禅 です。禅宗の本尊は坐禅 と言われているくらい、我々の生活の中で坐禅が大事です。

 ところが、キーボードで「ざぜん」を入力し ても、「変換」のボタンを押せば「座禅」になり、なかなか 坐禅になってくれ ない場合が多いです。それは「 坐」が当用漢字の中に含まれないから、当然と 言えば当然です。しかし、禅宗ではたいがい坐禅と書き、「座禅」とは書きません。

 わたくしがこの「帰命」のために下手な日本 語で最初に原稿を書いたのは12年前ですが、その時も 確かに坐禅ではな く、「座禅」と書いて いたと思います。しかし、それは編集者の雲水に坐禅に直され、「座」とは一般的な意味です わることだが、宗教的な意味をもつ坐禅の場合は「坐」でなければならない、 と言われました。
 そうかと思って以降「坐 禅」と書くようになりましたが、頭の中から次 の思いは離れませんでした。坐 禅とは特殊なすわり方をするのではなく、人間 の一番自然なすわり方のはずですから、何も特別な「宗 教的な意味」などつけないで、やはりもっとも一般的で どこでも通用する「座」 という字を使えばいいではないか、と。
 ある本のにこう書いてあります。「座」とは屋根の下で「坐る」ことですが、お釈迦 様は野外で坐っていた から、「座禅」ではな く坐禅と書くべき だ、と。しかし、理屈っぽいわたくしはそれでも納得で きません。お釈迦様は木下で坐 っていたのは確かですが、我々は今お堂の中で 坐っている(座っている?)のですから、 この場合はやはり「座禅」 でいいじゃないでしょうか。

 こんな無駄な屁理屈をこねていながら小説を 読んでいたら、「彼女は座席 坐りました」 という文書に出くわしました。 「座席」「坐る」 のだと。どうしたことかと、辞書で調べてみま すと 「座」というのは野外 であろうが室内であろうが、「すわる場所」を示してい るのに対して、 「坐」とは特別な宗教 的な意味も何もなく「すわる事」を表します。

 これで初めて坐禅「座禅」の 違いが分かりました。最初から辞書で調べれば、無駄な 考え事をせずに済んでいたでしょう。禅で言う坐禅はどこまでも生きて いた行為としての「坐」 、すわるコトでなければなりません。すわるバ ショに敷く薄っぺらな座蒲団 のように、生きていない、動じない、四角い物 体であれば、当然「座」 の字でいいのです。しかし、この薄っぺらな物 体の上に生きていた生肉の人間が実際に足を組んで手を 組んで目を覚まして「坐わる」 のですから、坐禅」 です。

 では、坐禅」 ではなく、「座禅」 とはどういうものか。
 禅宗には専門僧堂と言われる修行道場が日本中に 何十ヶ所もありますが、そういう専門僧堂で雲水が修行 のために安居します。「寝て一畳すわって半畳」と言わ れるように、雲水に与えられている生活のスペースはだ いたい畳み一枚の「単」(床より50センチほど高い場 所)です。それぞれの単に雲水の名前の札が掛かってい ますが、なぜか札だけが掛かっていて雲水がいない単も あります。座蒲団だけ はちゃんと敷いてあります。これを「幽霊安居」と言い ますが、一応雲水がそこで修行していることにはなって いるのですが、実際にはいません。ですから、坐禅もしません。座蒲団がおいてあるだけです 。これはまさに「座禅」 といわなければなりません。
 「座蒲上人なし」という禅の言葉もありますが、 これは坐禅している時 に、人は自分で力んですわっているのではなく、坐禅に身を任せきって、あく までも坐禅が自ずと 坐禅しているあり方を 示しますが、今の禅宗の場合はそれどころではなく、文 字通りに「座蒲」の上 に誰もおりません。あるいはいたとしても、寝ているか 、考え事をしているか、たんなる「行事」として、 「座禅」で時間をつぶ しているだけです。これは言うまでもなく、坐禅修行ではなく、座禅修業座蒲団の上で凡夫の業を修めること)です。

 我々がしなければならないのは生きている 「行」として「坐る」ことであり、死んだ ような座禅修業に陥らないように注意し なければなりません。

(無方)