『辨道話』を読む⑤

辨道話

諸佛如來、ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。 この三昧に遊化するに、端坐參禪を正門とせり。この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縱横きはまりなし。諸佛のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覺をのこさず。群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覺に方面あらはれず。 いまをしふる功夫辨道は、證上に萬法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超關脱落のとき、この節目にかかはらむや。 予發心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。いささか臨濟の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の佛法を正傳せり。あへて餘輩のならぶべきにあらず。 予かさねて大宋國におもむき、知識を兩浙にとぶらひ、家風を五門にきく。つひに大白峰の淨禪師に參じて、一生參學の大事ここにをはりぬ。それよりのち、大宋紹定のはじめ、本郷にかへりしすなはち、弘法衆生をおもひとせり。なほ重擔をかたにおけるがごとし。 しかあるに、弘通のこころを放下せん激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄して、まさに先哲の風をきこえむとす。ただし、おのずから名利にかかはらず、道念をさきとせん眞實の參學あらむか。いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解をおほひ、むなしく自狂にゑうて、ひさしく迷郷にしづまん、なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時をえん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、いづれの山川をかとぶらはむ。これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋國にして禪林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持せしを、しるしあつめて、參學閑道の人にのこして、佛家の正法をしらしめんとす。これ眞訣ならむかも。いはく、 大師釋尊、靈山會上にして法を迦葉につけ、祖祖正傳して、菩提達磨尊者にいたる。尊者、みづから神丹國におもむき、法を慧可大師につけき。これ東地の佛法傳來のはじめなり。 かくのごとく單傳して、おのづから六祖大鑑禪師にいたる。このとき、眞實の佛法まさに東漢に流演して、節目にかかはらぬむねあらはれき。ときに六祖に二位の神足ありき。南嶽の懷讓と青原の行思となり。ともに佛印を傳持して、おなじく人天の導師なり。その二派の流通するに、よく五門ひらけたり。いはゆる法眼宗、為仰宗、曹洞宗雲門宗、臨濟宗なり。見在、大宋には臨濟宗のみ天下にあまねし。五家ことなれども、ただ一佛心印なり。 大宋國も後漢よりこのかた、教籍あとをたれて一天にしけりといへども、雌雄いまださだめざりき。祖師西來ののち、直に葛藤の根源をきり、純一の佛法ひろまれり。わがくにも又しかあらむ事をこひねがふべし。 いはく、佛法を住持せし諸祖ならびに諸佛、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり。西天東地、さとりをえし人、その風にしたがえり。これ、師資ひそかに妙を正傳し、眞訣を稟持せしによりてなり。

 

宗門の正傳にいはく、この單傳正直の佛法は、最上のなかに最上なり、參見知識のはじめより、さらに燒香禮拜念佛修懺看經をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。 もし人、一時なりといふとも、三業に佛印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな佛印となり、盡虚空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、諸佛如來をしては本地の法樂をまし、覺道の莊嚴をあらたにす。および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明淨にして、大解脱地を證し、本來面目現ずるとき、諸法みな正覺を證會し、萬物ともに佛身を使用して、すみやかに證會の邊際を一超して、覺樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を轉じ、究竟無爲の深般若を開演す。 これらの等正覺、さらにかへりてしたしくあひ冥資するみちかよふがゆゑに、この坐禪人、確爾として身心脱落し、從來雜穢の知見思量を截斷して、天眞の佛法に證會し、あまねく微塵際そこばくの諸佛如來の道場ごとに佛事を助發し、ひろく佛向上の機にかうぶらしめて、よく佛向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地艸木、牆壁瓦礫、みな佛事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本證の佛化を周旋するゆゑに。 これらのたぐひと共住して同語するもの、またことごとくあひたがひに無窮の佛德そなはり、展轉廣作して、無盡無間斷、不可思議、不可稱量の佛法を、遍法界の内外に流通するものなり。 しかあれども、このもろもろの當人の知覺に昏(混)せざらしむることは、靜中の無造作にして直(眞)證なるをもてなり。 もし凡流のおもひのごとく、修證を兩段にあらせば、おのおのあひ覺知すべきなり。 もし覺知にまじはるは、證則にあらず、證則には迷情およばざるがゆゑに。 また心境ともに靜中の證入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、廣大の佛事、甚深微妙の佛化をなす。 この化道のおよぶところの艸木土地、ともに大光明をはなち、深妙法をとくこときはまるときなし。 艸木牆壁は、よく凡聖含靈のために宣揚し、凡聖含靈はかへつて艸木牆壁のために演暢す。自覺覺他の境界、もとより證相をそなへてかけたることなく、證則おこなはれて、おこたるときなからしむ。ここをもて、わづかに一人一時の坐禪なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに。無盡法界のなかに去來現に、常恒の佛化道事をなすなり。 彼彼(ひひ)ともに一等の同修なり、同證なり。 ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと橦の前後に妙聲綿綿たるものなり。このきはのみにかぎらんや、百頭みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。 しるべしたとひ十方無量恒河沙數の諸佛ともにちからをはげまして、佛智慧をもて、一人坐禪の功德をはかりしりきはめんとすといふとも、敢てほとりをうる事あらじ。

典座教訓講義②

2021年8月25日「典座教訓」②

 

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   觀音導利興聖寶林禪寺比丘道元

佛家に本より六知事有り、共に佛子たり、同じく佛事を作す。中就なかんずく、典座の一職は、是れ衆僧の辨食を掌つかさどる。『禪苑清規ぜんねんしんぎ』に云く、「衆僧を供養す、故に典座有り」と。

いにしえより道心の師僧、發心の高士、充て來るの職なり。蓋し、一色いっしきの辨道に猶る歟。若し道心なき者は徒らに辛苦を勞して、畢竟、益無し。

『禪苑清規』に云く、「須く道心を運めぐらし時に随つて改變し、大衆をして受用安樂ならしむべし」と。昔日そのかみ潙山いさん、洞山とうざん等、之れを勤め、其の餘の諸大祖師も、曾て經來れり。所以に世俗の食厨子じきずし、及び饌夫せんぷ等に同じからざる者か。

山僧、在宋の時、暇日、前資勤舊ぜんしごんきゅう等に咨問するに、彼等聊いささか見聞を擧し、以て山僧が爲に説く。此の説似は、古來有道の佛祖の遺す所の骨隨なり。大抵、須く『禪苑清規』を熟見すべし。然る後、須く勤舊子細の説を聞くべし。

所謂、當職は一日夜を經て、先ず齋時罷さいじはに、都寺つうす、監寺かんす等の邊に就て、翌日の齋粥の物料を打す。所謂、米菜等なり。打得し了おわりて、之を護惜すること眼睛がんぜいの如くせよ。保寧ほねいの勇ゆう禪師曰く、「眼睛なる常住物を護惜せよ」と。 之を敬重すること御饌草料ぎょせんそうりょうの如く、生物熟物、倶に此の意を存せよ。

次に諸知事、庫堂に在て商量すは、明日甚なんの味を喫し、甚の菜を喫し、甚の粥等を設くと。『禪苑清規』に云く、「物料並に齋粥の味敷を打す如きは、竝に預先まづ庫司くす知事と商量せよ」と。 所謂、知事には都寺、監寺、副寺ふうす、維那いのう、典座、直歳しっすいあり。味敷を議定し了りて、方丈衆寮しゅりょう等に嚴浄牌ごんじょうはいを書呈せよ。

然る後、明朝の粥を設辨す。米を淘り菜等を調へ、自らの手にて親しく見、精勤誠心にして作せ。一念も踈怠緩慢にし、一事を管看かんかんし、一事をも管看すべからず。功徳海中に一滴も也た譲ること莫く、善根ぜんごん山上、一塵も亦た積む可きか。

『禪苑清規』に云く、「六味精せず、三徳給せずば、典座の衆に奉する所以ゆえんに非ず」と。先づ米を看て便ち砂を看る。先づ砂を看て便ち米を看る。審細に看來り看去りて、放心すべからず。自然に三徳圓滿し、六味倶に備る。

雪峰せっぽう、洞山に在りて典座と作る。一日、米を淘る次で、洞山問ふ。

「砂を淘り去りて米か、米を淘り去りて砂か」。

峰云く、「砂米一時に去る」。

洞山云く、「大衆、箇の什麼をか喫す」。

峰、盆を覆却ふくきゃくす。

山云く、「子、佗後、別に人に見まみえ去ること在らん」と。

上古有道の高士、手して自ら精し至り、之れを修すこと此の如し。後來の晩進、之れを怠慢すべきや。

先來云ふ、「典座は絆ばんを以て道心となす」と。米砂誤りて淘り去ること有るが如きは、自ら手して檢點す。

 

右、菩提心は、多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名(付)くと。

然(しか)れば乃(すなわ)ち暫くこの心に依つて、菩提心と為すべきものか。

誠に其れ無常を観ずるの時、吾我の心生ぜず、名利(みょうり)の念起こらず、時光の太(はなは)だ速やかなることを恐怖(くふ)す、所以(ゆえ)に行道は頭燃(ずねん)を救う。『学道用心集』

 

一 道心ありて名利をなげすてんひといるべし。いたづらにまことなからんものいるべからず。あやまりていれりとも、かんがへていだすべし。しるべし道心ひそかにをこれば、名利たちどころに解脱するものなり。 『重雲堂式』

 

佛道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人にしられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。

又、つねにけさをかけて坐禪すべし。坐禪は三界の法にあらず、佛祖の法なり。『正法眼蔵・道心』

 

釈迦牟尼仏(のたまわ)く、明星出現時(みょうじょうしゅつげんじ)、我与大地有情(がよだいちうじよう)、同時成道(どうじじょうどう)。しかあれば、発心修行(ほっしんしゅぎょう)、菩提涅槃(ぼだいねはん)は、同時の発心修行、菩提涅槃なるべし。これ発阿耨多羅三藐三菩提なり。一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり、修証転法もまたかくのごとし。坐禅辨道これ発菩提心なり。発心は一異にあらず、坐禅は一異にあらず、再三にあらず、処分にあらず。『正法眼蔵・発無上心』

 

佛祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して斷絶せず、發心、修行、菩提、涅槃、しばらくの間隙(かんげき)あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強爲(ごううい)にあらず、他の強爲にあらず、不曾染汚(ふぞうぜんな)の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。                    『正法眼蔵・行持』

 

おほよそ、心三種あり。一つには質多心(しったしん)、此の方に慮知心と称す。

二つには汗栗多心(かりたしん)、此の方に草木心と称す。

三つには矣栗多心(いりたしん)、此の方に積聚精要心(しゃくじゅうせいよう)と称す。

このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。

菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。『正法眼蔵・発菩提心

坐禅&勉強会(『正法眼蔵・随聞記』29)

資料:https://drive.google.com/file/d/1AjofJQ4YOlbN5-Q_V9uT8v5jm5ScmUnh/view?usp=sharing

師は南天竺の刹利種なり、大國の皇子なり。大國の王宮、その法ひさしく慣熟せり。小國の風俗は、大國の帝者に爲見のはぢつべきあれども、初祖、うごかしむるこころあらず。くにをすてず、人をすてず。ときに菩提流支の訕謗を救せず、にくまず。光統律師が邪心をうらむるにたらず、きくにおよばず。かくのごとくの功徳おほしといへども、東地の人物、ただ尋常の三藏および經論師のごとくにおもふは至愚なり。小人なるゆゑなり。あるいはおもふ、禪宗とて一途の法門を開演するが、自餘の論師等の所云も、初祖の正法もおなじかるべきとおもふ。これは佛法を濫穢せしむる小畜なり。『正法眼蔵・行持』

もろもろの二乗の小見および経論師の三蔵等は、この六祖の道を驚疑怖畏すべし。もし驚疑せんことは、魔外の類なり。『正法眼蔵・仏性』

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