2003-01-01から1年間の記事一覧

安泰寺はオマエが創るんだ (大人の修行⑧)

安泰寺での初めての夜は私にとっていまだに印象深いものです。田舎の山の中に安泰寺だけがぽつんとあるにもかかわらず、どこからか騒がしげな音楽が聞こえるのです。街の中でさえそんなにうるさいことは希だというのに、初めての夜は一晩中、黒人が“ハレルー…

安泰寺への道 (大人の修行⑦)

はじめて安泰寺に上山したのは22歳の時。それまで6年間はあちらこちらの道場で参禅したり、自分一人で坐禅してみたりしましたが、毎日坐禅していても、私のこうした坐禅はむしろ趣味ではないかという疑問を持つようになり、早く一日24時間修行ができる…

もの足りぬ (大人の修行⑥)

先月は「大人」という言葉を「八大人覚」の「少欲」と「知足」で説明しました。 今ここ自分に与えられた一瞬の命の素晴らしさに気付き、よそでいらないものを追求しないことが大人としての自覚です。というようなことを言ってしまいますと、そんなことはたん…

少欲・知足 (大人の修行⑤)

「アンタにまで赤ちゃん返りされては困る!」 6月のはじめに私の長女が産まれてから、よく妻にそう怒られてしまいます。赤ちゃんが産まれると、上の子が今まで成長して覚えたことまで忘れて精神的に「赤ちゃん」に戻ることを心理学で「赤ちゃん返り」という…

業と行 (大人の修行④)

さて、「大人の修行」という言葉の意味ですが、「大人」の意味をハッキリさせる前にはまず「修行」について考えたいと思います。今年の「帰命」の2月号では「坐禅」と「座禅」の違いについて書きましたが、「修行(しゅぎょう)」と「修業(しゅうぎょう)…

自分の問題 (大人の修行③)

「大人の修行」、これは何か。 まず、自分のケツを自分で拭くこと。そもそも修行しようと思っているのは自分自身のはずですから、自分の壁にぶつかったとき、それを自分で越えなければ、大人とはいえません。子供が親にオンブされているように、弟子が師匠に…

何を修行するか (大人の修行②)

前回に続いて「大人の修行」を考えてみたいと思います。この「大人の修行」シリーズは長引きそうですが、付き合っていただければ幸いです。まず安泰寺で参禅者にかならず渡している参禅しおりに一番初めに出てくる文書を引用したいと思います(このホームペ…

坐禅とは、修行とは何か?(大人の修行①)

安泰寺の堂頭になって、丸一年が経ちました。それまでは自分の修行しか心配することはありませんでしたが、師匠の指導の元で仲間と一緒に生活している雲水の立場から、堂頭という、修行者を指導し、参禅者に修行の如何を教えなければならない立場に変わりま…

迷を大悟する

道元禅師の現成公案の中に次の三つの文書がでてきます。 「迷を大悟するは諸仏なり、悟りに大迷なるは衆生なり。」 「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり、法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。」 「身心に法いまだ…

善いことをするというイヤらしさ

「『善いことをする』という悪いこともある。」(澤木興道) 澤木老師がここで言わんとしているのは、何も「善いこと」自体が悪いというのではなく、善いことをしていると、「オレはいいことをヤッタ」「だからオレはいいヤツだ」と思ってしまう自分が悪いの…

福は外、鬼は内

自分さえよければいい、というのは私たち人間の悲し い根性ですが、そういう根性に気付き、転回させること に宗教の要があると思います。 ところが、下手をすれば宗教の中にまで「自分さ えよければいい」という根性を持ち込んで、自分の信仰 を間違った方向…

オメデタイこと

本当にオメデタイことは何か。 先月は菩薩の行き方について、菩薩は六道に自由に生まれ変わって、一切の衆生を救おうと しているのだ、と書きました。 六道に生まれ変わることを仏教用語で「流転」と言いますが、下手をすれば「流転」を死ん だ後のことだと…