2004-01-01から1年間の記事一覧

おさがしものは何ですか (大人の修行⑳)

「心猿意馬」の話の続きです。先月は「管る莫れ、かの心猿意馬に。功夫は猶、火中の蓮の若し。」という道元禅師のお言葉を引用しました。おなじ永平広禄の第五に、さらに 「即心即佛、是、風顛。直指人心、更に隔天…」 とあります。「仏とは心のことだと、気…

心猿意馬 (大人の修行⑲)

先月まで坐禅と坐禅以外の時の修行の心構えについて、「三つの問い」にお答え致しました。何がいいたかったか、一言でいえば「マインドフルネス」(注意深さ、三昧)を忘れること、心そのものを忘れることです。これにビックリした人がいたかもしれません。…

「マインドフル」なお心、 もう忘れてしまいなさい (大人の修行⑱)

先月と先々月は呼吸に対する質問にお答えしました。次の質問は日常生活の中で如何に禅の修行ができるかという問いです。 問: 「座蒲の上で坐る時以外に、例えば日常生活の中で歩いたり、しゃべったり、食事したり、仕事したり、普通に座臥したりするときに…

坐禅運転 (大人の修行⑰)

先月の、「坐禅においてどう呼吸をすべきか・呼吸に集中すべきなのか」という質問に対する答えの続きです。 先月は「呼吸に集中するということは心を落ち着かせるひとつの手だ」と言いました。ところが、坐禅にはマニュアルがありません。「坐禅とはこうする…

3つの問い (大人の修行⑯)

次の何ヶ月かにわたって、今度は正身端坐の坐禅について課題を言及していきたいと思います。まず去年メールで問い合わせがあった3つの質問から始めようと思います。その質問というのは、1.坐蒲の上でどう坐禅をし、またどうやって呼吸をすべきか。 2.坐禅以…

トマトとキューリ (大人の修行⑮)

現成公案のなかで、道元禅師は「草は棄嫌におふるのみなり」と記していますが、仏弟子はまさに雑草のように生えてこなければなりません。たとえ師匠の「棄嫌」な態度に踏みにじられても・・・いや、踏みにじられてこそ生えてくる雑草が仏弟子の目標でなけれ…

オマエなんか、どうでもいい! (大人の修行⑭)

私たちはなかなか坐禅ができない、あるいは坐禅をしていても心が落ち着かない、その本当の理由を明らかにするために、一昔前の安泰寺文集の一部分を検討しました。それらの文書は非常に真面目に坐禅の如何を問うていますが、どこか他人事のように頭だけで坐…

リクツ抜きに坐ること (大人の修行⑬)

坐禅とはまず身体の姿勢を調え、その後に呼吸を調え、そしてその後にいよいよ肝心な心を調えることだと思う人も多いと思いますが、これは大きな間違いです。身体と、呼吸と、心とは、別物ではないからです。身体の姿勢を調えることはそのまま呼吸を調えるこ…

凡夫のナマ肉 (大人の修行⑫)

「安泰寺は学校ではなく、各自が課題は与えられつつも、求めるのは自分であり、自分が参究する場であって、教えてもらう所ではない。つまり、自分がどれだけ、どう、扉を『叩く』かということである。」 私の先輩は安泰寺に入門した当初、こう心得て出発しま…

どれだけ、どう、扉を叩くか (大人の修行⑪)

仏教の中に十重禁戒という大事な教えがあります。簡単に言ってしまえば、この十戒を破れば、例えお坊さんであっても、いやお坊さんだからこそ地獄に堕ちることを免れません。この十重禁戒は不殺生(殺さない)、不偸盗戒(盗まない)から始まりますが、その…

理想と現実――今の息を今息しつつ (大人の修行⑩)

三回にわたって、初めて安泰寺に上山したときに受けた印象などを振り返ってみました。私が大学生の頃に持っていた「ZEN」のイメージと安泰寺の実生活が全く違っていたのは、以前述べたとおりです。特に雲水が坐禅中に絶えず居眠りしているという現実は私の坐…

べつに、死んでも・・・ (大人の修行⑨)

安泰寺で経験した生活は私の考えていた「禅修行」と大部違いました。先月号にも書きましたが、生きるための作務の大変さ、雲水の坐禅中の居眠り、そして「安泰寺をオマエが創るのだ!」という想像もしなかった修行態度。もう少し詳しく振り返ってみたいと思…