何を修行するか (大人の修行②)

 前回に続いて「大人の修行」を考えてみたいと思います。この「大人の修行」シリーズは長引きそうですが、付き合っていただければ幸いです。まず安泰寺で参禅者にかならず渡している参禅しおりに一番初めに出てくる文書を引用したいと思います(このホームページでは「参禅心得」として利用しております」)。

「安泰寺は仏菩薩の道場であり、真面目な求道者の集う叢林である。

 ここでの坐禅や作務などは生活の一部分として行われているのではなく、むしろ一日24時間の生活は生きた禅の現れでなければならない。こうした毎日の生活の中で表現されるべき命の働き以外には、安泰寺の修行、禅仏教の教え、宗教的な生き方等は一切ない。また安泰寺で精神的な指導や心の安らぎ、浮世を離れた山の静けさや大自然に適った共同生活、真実の道や永遠の幸福のようなものを望んでいても、こういったものは皆無である。

 安泰寺は自分自身の人生を菩薩修行として創造していく場所に他ならない。修行者は和合し、仲良く生活しなければならないのは勿論だが、他の援助を期待したり、教育されたりすることはないので、自分の修行は自分でしなければならない。いちばん大事なことは自分の方へ仏道を引き寄せるのではなく、自分の身も思いをも仏道の方へ投げ入れることだが、そのためには先ず自分は何のために安泰寺に来たのか、ここで何を修行しようとしているのか、をハッキリさせなければならない。

 自分が今生きているこの瞬間の命のほかに期待するものがあれば、必ず失望するであろう。自分をも人をも誤魔化さずに、私は一体何をしにここへ来たのか、と自分に問うてみられたい。」

 この文書は今から10年前、安泰寺に来る外国人参禅者のために私が書いた案内書の日本語訳です。この案内書を当時の堂頭だった宮浦老師に頼まれた書いたものでしたが、その時の私はまだ京都の大学で留学していて、得度も受けておらず、安泰寺で安居していたわけでもありません。以前大学を半年休んで、安泰寺で参禅したことはありましたが、雲水の生活はむしろ端から見ただけで、自分のすべてを仏道の中へ投げ出すというようなことは頭で考えていても、その実践の痛さはほとんど知りませんでした。  「僧」にもなっていない外人の若僧にしては、ずいぶん生意気な文書になってしまいました。しかしその文書をのちに日本語にも訳し、今でもすべての参禅者に最初に読んでもらっていますし、今日読み返しても間違ったことは書いていないと思います。

 何で25歳の留学生がこんな文書を書いてしまったのでしょうか。その理由には、まず自分のそれまでの10年間の坐禅姿勢に対する反省があったと思います。禅というよりも「zen」を求め、その「zen」に何やら東洋的な、いや、洋の東西を越えた、計り知れない知恵を託していたのです。真実の道、本来の自己、生きる意義といってもいいと思います。それをとにかく遠く離れたところに求めてしまいました。そして求めているあまりに今の日常生活の中でもうすでにちゃんと現成している一瞬一瞬の生の命の連続には気付くことがありませんでした。  このことにぼんやりと気付いたのは22歳の時の、あの半年の安泰寺暮らしの時です。それまでの自分の修行態度に対する反省と共に、先輩達の修行を見ても疑問を押さえきれませんでした。心から尊敬できる先輩もいましたが、この人ははたして何をしに安泰寺に来たのだろうか、という先輩にも巡り会いました。これは結局未熟な自分の心の反映に過ぎませんでしたが、次号まで。