坐禅運転 (大人の修行⑰)

 先月の、「坐禅においてどう呼吸をすべきか・呼吸に集中すべきなのか」という質問に対する答えの続きです。

 先月は「呼吸に集中するということは心を落ち着かせるひとつの手だ」と言いました。ところが、坐禅にはマニュアルがありません。「坐禅とはこうするものだ!」と言いきってしまうと、それはもはや坐禅ではなくなってしまいます。絶えず自分で坐禅の工夫をする必要があるわけですが、その工夫の中身は「真っさらな自分に立ち返る(帰命)」と言うことですから、そこに「これだ!」と掴み得るものがあるはずもありません。3代前の安泰寺の住職、内山興正老師は坐禅を車の運転に例えられました。自動車運転に慣れていない人にとって、その操縦は大変難しく、よく注意しなければ、自分も他人も危ない目に遭わせることになります。まず車の運転をちゃんと覚えておかなければなりません。足でアクセル、ブレーキとクラッチを上手に使い分け、手でハンドルをしかっり持ちながら適切なギアを選ぶ・・・そして必要に応じてウィンカーを出したりワイパーを使ったりしなければなりません。目は道路を見ていますが、道路では前後の車に注意を払うと同時に、信号機や標識にも気を付け、道路の側で遊んでいる子どもたちもよく視野に入れておかなければ大変なことになりかねません。場合によってはラジオをつけて交通情報や天気予報を聞かなければなりませんし、迷った時は車を止めて地図で自分の位置を確かめなければならないこともあります。  これらのことは自動車学校で教わるわけですが、自動車学校を卒業して運転免許を取ったからといって、上手に運転できるかというと、決してそうではありません。左足をクラッチに乗せ、左手でギアを入れ、右足でアクセルを踏み、徐々に左足を上げクラッチをつなげながら発進する・・・その間、目の前の道路も見、ミラーで安全の確認もしなければなりません。これらのリクツが頭に入っていても、実際に身に染みていない限り、その運転はギコチナイはずです。運転が上達すれば、これらの運転の項目は全部忘れられ、手足は勝手に動くようになります。その時、意識が覚めているのはもちろんですが、頭で絶えず「左足は・・・右足は・・・手は・・・目は」と身体の様子を観察しコントロールする必要はまったくなくなっています。そんなことをすれば、逆に自由自在な運転ができなくなってしまいます。

 さて、坐禅の仕方もまったく同じです。坐禅の整え方のチェックポイントは様々です。身体の姿勢にしても、呼吸にしても、心にしても、そのいずれもおろそかにしてはいけません。しかし、いつまでも自分自身をチェックし、「今の姿勢で間違いない?呼吸は大丈夫でしょうか?心は集中しているかしら?」と心配ばかりしていたら、打ち込んで「ただ坐る」こと(只管打坐)は不可能です。自動車運転と同じように、最初はその基本をしっかり学んで、学んだことを実行に移さなければなりません。が、いつかは学んだことを完全に放ち忘れ、身体をも呼吸をも心をも自由にさせる必要があります。「自受用三昧」とはこういうことだと思います。「自分を見つめること」でも、「今の一呼吸をみること」でもありません。ただ坐るという坐禅に専念していれば、自分は勝手に自分をし、呼吸は勝手に呼吸をしています。「私」がするのではありません。  この「私」がなかなかそうさせたくないのは、自分をも信じえず、自分の呼吸をも坐禅そのものをも信じていないからです。自信がないから、「私」を手放すことができないのです。

 坐禅における心の姿勢はこの「手放し」でなければなりませんが、これはもちろん「放置」を意味しているわけではありません。眠くなった時、姿勢が崩れそうになった時、呼吸が苦しくなった時などは、速やかに身・息・心を適切に整えなおさなければなりません。これは、運転中にブレーキを踏んだり加速したり、またハンドルを切ってカーブを曲がったりするようなものです。意識こそハッキリ覚めていれば、その時その場で自然に行われるもので、いつも心を無理に一点に集中して行うものではありません。視野が広く、意識が全てに行き渡っているからこそ安全な運転が可能なのです。

 繰り返し申し上げます、「私」は坐禅を心配しなくてもよいのです。坐禅坐禅に任せ、自分を自分に任せてください。「坐禅坐禅する」ということを実感できないのは、「私」がそれを許そうとしないからです。坐禅を「私」がコントロールしようとしていますから、却って坐禅ができないのです。

 坐禅中に呼吸にのみ注意し、他の一切の事柄を忘れるべきだという人は確かにいます。そうすれば「三昧」に到達できるからだそうです。彼らのそういう「三昧」に入れば、眼耳鼻舌身意の六根の働きはやめ、「絶対無」の状態を体験します。坐禅の終わりの鐘の合図も聞こえず、気がついたら真っ暗なお堂の中で自分は独りで坐っていたという話などを聞きます(この場合は耳が鐘の音を聞こえていたとしても、脳はそれを「坐禅の終わりの合図」として処理せず、「そのまま」聞いていただけです)。極端な場合、こういった「三昧」が2週間も続き、意識が正常に戻った時には肩の上で小鳥が巣を作っていたという神話(?)もあります。あるいは達磨さんの「面壁9年」をこういう風に解釈している人もいます。9年間も食べず寝ずに「三昧」に入ったということです。また、何年も一緒に修行生活を送っているのに、隣に坐っている人の顔すら知らないと言うことを、「真剣に坐禅している」証拠だと思いこんでいる人もいるようですが、こういう向きの「三昧」や「真剣な坐禅」は決して良いことだとは言えないと思います。自動車を運転している際、車の中の自分のことも、同乗している人たちのことも、車自体も、車の外にある道路や、自分の視点から見えない道路の側や脇道から飛び出してくるかもしれないというものまで、全てを視野に入れて同じく意識していなければなりません。ブレーキだけを意識しても、アクセルやハンドルだけを意識してもダメなのです。坐禅中も同様、呼吸のみに集中することは決して良いことではないと思いますが、特別な場合に限って、崩れた身・息・心のバランスを取り戻すために呼吸に集中することは有効な方法だといえます。しかし、呼吸に集中することそのものは坐禅の目的ではありません。坐禅は全てを含んでいなければなりませんが、そのためには全てを忘れてしまう必要があります。オウム真理教のいう「三昧(サマーディ)」ではありませんが、人の顔も分からなくなるまで、心を一点に絞ってしまうということは非常に危険なことです。そういう「三昧」や「呼吸」への執着をこそ手放し、心を周りの世界に開くべきです。

 「三昧」の本当の意味はこの心の開かれた状態だと思います。360度の現実が見えてこなければなりません。呼吸を特別に問題にする必要はありません。そのままにし、今の一呼吸に任せればいいのです。足の痛みも問題にしなくて良いのです。そのままにし、痛みによってさらに覚醒すればいいではありませんか。眠気も問題ではありません。「眠たい」ということに気づいて、目を覚ませ、腰を入れ直して坐ればいいのです。雑念も問題ではありません。雑念に気づき(脳という一臓器が正常に機能している限り、雑念は絶えずわいてきます)、手放し、坐り続ければいいのです。

 ただ一つのことに集中して、私たちは精神を高めようとし、三昧に入ろうとしますが、そのこと自体は大変な間違いです。こうして一つのことに集中しようとしている時、集中の対象(例えば「呼吸」)と自分の心は乖離してしまい、本当の意味で集中していないのです。本当の意味での集中とはそのものになることですが、例えば足が痛い時、その痛みから逃げず、またその痛みと闘わず、その痛みそのものになりきってしまうと、もはや痛みと自分の間にはなんの隔たりもなくなります。本当に痛い時には、「私が痛い」という思いすら消えてしまい、あるのは「イタイ」という事実だけです。イタイ三昧です。坐禅も同様「私が」するのではなく、ただ坐禅が坐るだけです。呼吸が呼吸しているだけです。私が坐る、私が呼吸をする、私が心を見る・・・まずこの迷いから目を覚まさなければなりません。