オウムから10年 ③「近代への挑戦としてとらえたサリン事件」

 『「われわれ」は、・・・「オウム事件」を通して現代という時代にひそむ文化的・ 社会的な病巣を見てきた。「オウム事件」はいずれ終息をむかえるであろう。しかし、それで「オウム事件」によって暴露された現代の病巣が根本的に切除されるわけではない。我々が現代の文化・ 現代の社会に「息苦しさ」を感じている限り、「オウム問題」は解決されず、種々の形態をとって、第2第3の「オウム事件」は起こりうる。「オウム問題」は依然として我々の、そして「われわれ」の問題でありつづけている。』

 

 臨黄教団はこうして「オウム事件」を「我々の問題」として定義してきました。まず「オウム事件」が明らかにしてきた「現代社会の病巣」を臨黄教団はどう捉えているのでしょうか。

 

 『近代人は、神ではなく人間という存在を信じて、社会を構成し歴史を形成してきた。 ・・・近代ヒュウマニズムは、人間を神の手から解放することによって、人間を人間の業縛の手にゆだねてしまった。

 

 しかも、一重構造化した世界においては、この業縛の手をのがれて人が憩いうる別の世界はもはや残されていない。現代世界は、人間が人間自身に、「人間である」ことに、息苦しさをおぼえ、人間自身に病みつつ、しかもこの世界の他どこにも行くところをもたない閉塞した世界である。現代人は、言いたいことを言い、したいことをする自由を謳歌しながら、どこか根本的に満たされず、ひそかに、いまの自分とは違う別の本当の自分、いまの此所とは違う自分の本当の居場所を求めて、人の手を拒否しつつ孤独の中に逃れようとしている。

 

 そして、我々が、「オウム事件」には本能的な憤りをいだきつつも、「オウム真理教」に惹かれて行った若者たちにある種の同情をもつのは、彼らの姿に現代社会に悩める者の姿、現代社会の犠牲者の姿を認めるが故であろう。つまり、彼らとともに我々自身が、この現代社会のあまりにも人間化されたその閉塞性に病むが故であろう。「オウム問題」に対する我々の反感と共感は、我々がこの問題に、善かれ悪しかれ、近代ヒュウマニズムに対する“破壊”と“超克”の二面性をもった“挑戦”を認めるところに由来している。』

 

 つまり、臨黄教団はオウム教団を一方的に断罪しているのではなく、むしろ彼らの近代ヒュウマニズムに対する挑戦の姿勢を見て同情ないし共感めいたものを感じているのです。しかし、共感していると同時に、オウムはなぜ近代ヒューマニズムを越えられなかったか、なぜ「オウム事件」に行き着いてしまったか、という問題をこう分析しています。

 

 『この教団が、・・・近代ヒュウマニズムに対する挑戦というものを本質要因とし、近代社会体制に風穴をあけてそこから脱出しようとする試みであるかぎり、挑戦の対象として近代というものを含んでいるのは当然と言える。しかし、この教団は、ただ挑戦の対象として近代というものを含んでいるだけでなしに、教団そのものが、すなわち、麻原の言行および実際の修行形態とその目的それ自身が 近代的な性格を非常に強く、本質的な要素としてもっている。つまり、近代ヒュウマニズムに挑戦しながら、自らが根本的に近代ヒュウマニズムの業病にとりつかれている。

 

 どういう事かと言いますと、

 

 『彼らの言う「解脱」とは、自己を超えてその背後に何か客観的な存在として広がっている神秘的世界を体験してその神秘的能力を獲得することを意味している。かかる「解脱」観に根本的に欠落しているのは、そのような神秘的世界をあこがれ求める自己への反省の眼差しである。・・・彼らの眼差しはつねに自己の先へ先へと注がれ、その事によって、その眼差し自身が自己の業縛そのものであることに気づかず、自己の描きだす妄想と幻想の中へ迷いこむ。人間という存在はこれほどまでに業縛の深い我執の存在である。彼らはこの事実に気づいていない。彼らは、近代ヒュウマニズムという人間の業縛を破り超えようとして、別の人間的業縛の世界に深く囚われて行ったと言える。彼らが、自己の背後に諸種の神秘的超越世界を描きだし、それを体験しつくして絶大な神秘的能力をえようと努めれば努めるだけ、彼らは自己をひきずり人間的業縛をひきずっている。かつて人類はこのようなオカルト的な呪術宗教の段階を経験してきた。そして、この人間的な業縛の深さに自身が気づいたとき、その時に、人類は真に宗教と言いうる世界に入ったのである。それは、人間として生きるかぎり我執の世界にさまよわざるをえない己れの在りように悲しみ、その悲しみの中に開かれてきた“祈り”の世界であった。“祈り”は、己れの我執を捨てさって、一切をつつみ生かす“永遠の生命”の許に諸共に生かされたいという人間の切実な願いの表明である。この時に始めて人類は、人間的な業縛をつつみ超える真に超越的なるものに出会ったのである。宗教の世界とは、こういう“祈り”によって開かれてきた世界のことである。

 

 しかし、「オウム真理教」には、この“祈り”がなく、人間の人間としての悲しみをつつみ抱く世界がない。彼らは「四弘誓願」の世界のあることを知らないのである。この事は、麻原には自らが説くマハームドラーの実践体験が根本的に欠落しているということによって象徴的に示されている。「オウム教団」は、現代社会において何らかの意味で“人間であること”の息ぐるしさを感じた者の集団でありながら、自己のその苦悩を“人間であること”の苦悩として受けとめ、その事によって始めて人間を人間としてつつみ抱く世界が開かれてくることを知らない集団である。彼らは超能力をえて“息苦しさ”を脱し“人間であること”を否定しようとする。そこに彼らの“選民意識”の幻想と“ポアの思想”が生まれてくる基がある。』  

 

 ここで私が注目しているのは、「見性成仏」などを強調している臨済系の教団なのに、最終的に「祈り」という言葉に行き着くと言うことです。坐禅の修行を「誓願」と「懺悔」という「二行」で表した内山老師の言葉を思い出します。禅宗坐禅も決して自分自身を人間として高め、一人自力で悟りを開いて仏になるのではなく、「誓願」と「懺悔」に終始していなければなりません。この自覚はどうやら曹洞宗に限ったものではなく、臨黄教団にもちゃんとあったようです。では、この臨黄教団はオウム事件に「我々の問題」として取り込み、彼らおよび近代社会に悩み苦しむ若者たちをどう救おうとするのか、また来月から検討いたします。