オウムから10年⑧「本当の問題は、オウムではない」

 「オウム真理教の教えは一見仏教的ですが、・・・決して仏教であるとは言えません。・・・インドの思想を底流にしながら様々な宗教の教えを取り込みつつ、日本人にも馴染みの深い仏教的な観念を現代風にアレンジしたもの、といえます。」

 

 曹洞宗の曹洞禅ネットでご覧になれます「Q&Aオウム真理教曹洞宗の立場から―」はこういった言葉から始まります。

 

 曹洞宗という教団は都の貴族社会に支えられてきた臨済宗黄檗宗と違い、中世に地方の百姓たちに広く伝われ、今や15万ヶ寺という寺の数でも、膨大な信者の数でも日本では最も大きな宗教団体を誇っています。それだからこそ、エリート志向の強い、こじんまりした臨黄教団と違い、心も広く以て宗門の内外の人たちに接しているかと思えば、そうではなく曹洞宗の立場は残念ながらオウム真理教の一方的な批判にとどまります。そこには、オウムに入団した若者を如何に救うかという慈悲心もなければ、自ら省みて「我々の問題」を問わんとする姿勢も見受けられません。

 

 しかし、自分の教団を棚上げするわけにはいきません。「Q&Aオウム真理教曹洞宗の立場から―」の言葉と照らし合わせて、曹洞宗の実態を考えてみたいと思います。そもそも私がこの「オウムから10年」シリーズで問題にしようとしているのは、「オウム真理教」という一つの新興宗教ではなく、私たちの日常における信仰と行の中身です。 そして、その中身を見ますと、おそらく曹洞宗に限らず、日本の既成仏教全体は「一見仏教的ですが、・・・決して仏教であるとは言えません」。それならば、ここで問題にしているのは何もオウムに限られた問題ではなく、仏教徒なら誰しもが考えるべき問題のはずです。

 

 問題は、オウムが仏教であるかどうかというのではなく、そのオウムを断罪している私たちがはたして仏教徒といえるかどうか、ということです。そして、最も大事なことですが、そもそも仏教とは何かということが問われます。私が思うには、オウムのようなインチキ教団が流行るのも、金儲けを目的とした既成の商売ブッキョウ(従来の臨済宗黄檗宗曹洞宗もしかり)が存在し続けるのも、仏の教え(=仏教)がハッキリした形で、広く提唱されていないからです。仏法を発見し、それを最初に提唱されたのはいうまでもなく釈尊ですが、その釈尊の教え(法・ダルマ)と今日の坊主どもの実践が如何に乖離しているか!と叫びたくなるのはわたくし一人でしょうか。まずここでメスを入れ、「一見仏教的」なものでも仏教でないものをことごとく切り捨てなければならないと思います。