オウムから10年⑮「坊主の妻帯」

 オウム事件からもはや12年間がすぎようとしています。この事件の背景には日本仏教の堕落があるということはできます。もしお坊さんがひごろ仏の教えを一般の人々に身を以て説いてさえいれば、この事件は起きてこなかったと、私は信じています。さて、そもそも日本仏教の堕落の原因はどこにあるのでしょうか。まずあげられるのは、「坊主の妻帯」です。

 

 つまり、お坊さんが結婚して、家庭を持つということです。現に私自身も5年前から結婚していて、子供が2人おります。独身をつらぬくお坊さんは全くいないわけではありませんが、お寺に嫁さんがいて子供がいるという風景は今やごく当たり前になっています。しかし、これは日本だけの話で、日本以外のアジアの仏教国から「日本にはお寺は存在するかもしれないが、お坊さんは存在しない」と批判が聞こえてくるゆえんもここにあります。お坊さんが結婚するということは、日本以外のアジアでは考えられないことであり、日本でも明治維新までは(浄土真宗を除けば)なかったことでしょう。もちろん、アジアで日本の仏教のイメージを悪くしているのは、僧侶の妻帯だけではなく、日本のお坊さんが好んで行う韓国、台湾やタイへの「慰安旅行」にも原因しているでしょう。

 

 どうしてお坊さんが明治維新まで結婚しなかったかと言いますと、仏教に昔から「不淫戒」という戒律があったからです。一生男女の交わりをしないということです。今はお坊さんの間でも「不邪淫戒」といって、在家の人と同じく、夫婦の間のセックスは認められています。「不邪淫戒」ならぬ「不淫戒」はそもそもどうしてできたのでしょうか。ひとつ考えられるのは、仏教を極めるためには非常に深い定力(じょうりき・坐禅の力)が必要とされますが、セックスをするとこの力が失われると言われています。逆に、不淫戒を守っていると時間や精力を無駄に使わないため、強い力が身に付くと言います。また、性欲が原因で浮かんでくる妄想も多いですから、なるべく性欲と縁を絶つと言うことでしょうか。あるいは、不淫戒が設けられた直接の原因は、女性に対する恐怖心のよう なものがあり、僧侶の修行を妨げ る存在で、女性は覚者にはなれないからだという解釈もあります。

 

 しかし、お坊さんが結婚するようになったのは、仏教のこの戒律の中身が変わったからではなく、国の法律が変わったからです。明治五年の布告で「肉食妻帯勝手なるべし」ということになりました。お坊さんと言えども、肉を食べるのも、妻を持つのも各々の好きなように、ということです。国の法律が変われば、お坊さんの生活形式がガラッと一転すると言うことは、それまで独身を貫いていたお坊さんたちも、実は仏教の戒律を守っていたのではなく、国の法律を守っていただけかもしれません。つまり、明治維新以前から、戒律はすでに空洞化していたはずです。一説によれば、それまで寺院法度によって禁止されていた僧侶の肉食妻帯を明治政府が認めたことにより、戒律を犯させることで僧侶を破戒させようとして、仏教を弱体化するように誘導しました。また僧侶の下に置かれていた神官は政府の威をかりて、仏教の全てを否定し破壊する「廃仏毀釈」運動を起こしました。つまり、表向きでは「肉食妻帯は勝手」ですが、その狙いは僧侶の地位を奪うことではなかったか、という推理です。しかし、ここで忘れては行けないのが、後の朝鮮半島侵略の時や、中国の文化大革命の時と違い、僧侶が半ば強制的に結婚させられたケースがないことです。政府はあくまでも僧侶各自の自由意思に任せたことで、結果的に今の日本仏教界の大部分が妻帯することになりました。

 

 日本仏教は大乗仏教と呼ばれていますが、大乗仏教はインドのおける一大思想運動として起こりました。それまでの出家者中心の上座仏教と違い、その運動の中心になったのは仏教の在家信者ではないかと言われています。また、大乗仏教の狙いもまた禁欲による各個人の解脱というより、苦の中にある全ての生き物たちの救いを目的とします。出発点から大乗仏教者の狙いは在家と友に生きることであり、在家と離脱することではありません。ならば、在家と出家の生活の形式の違いもなるべくない方がいいはずです。では、僧侶の妻帯はなぜ問題なのでしょうか。妻帯は日本仏教の堕落とどう関係しているのでしょうか。セックスをするかしないかという問題ではないような気がいたします。

 

 安泰寺の住職(堂頭)は数代前から結婚しています。しかし、自分の子供に寺を継がせた堂頭はまだいません。また、堂頭が結婚していても、堂頭の寺での生活と家庭生活は分かれています。例えば食事は堂頭は他の修行僧と共に食べており、家庭は家庭で(堂頭抜き)で食べます。他のお寺のように、家内を「寺族」と呼んだり、家庭を「寺庭」と呼んだりもしません。また、他の修行僧が結婚していても、あるいは彼女がいても、カップルとして一緒に寺で暮らすことは出来ません。

 

 安泰寺のこう言った現状には様々な理由がありますが、このままでは問題がないということは決してありません。一方は僧侶が結婚して家族を持つ事の意義、修行の場としての家庭と、他方は寺と家庭を分ける必要、叢林(修行者の集い)の中に家庭を持ち込まないことの理由をハッキリさせることは今後の安泰寺の大きな課題としてあると思います。また、安泰寺のみならず、日本仏教がれっきとした仏教として生き残れるかどうかということも、こういった課題が解決されるかどうかにかかってくると思います。

 

 寺と妻帯の諸問題についてはまた来月考えたいと思います。