智源寺僧堂で「摩訶般若波羅蜜」講義(2)

觀自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり。百草なり。萬象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色聲香味觸法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施、淨戒、安忍、精進、靜慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未來なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行住坐臥なり。『摩訶般若波羅蜜

 

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。

萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。

佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。

しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。

迷を大悟するは佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。

さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。

諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。

身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。『現成公案

 

正法眼蔵註解全書:『御聴書』詮慧、『御抄』経豪、『聞解』面山瑞方&斧山玄鈯、『弁註』天桂伝尊、『那一宝』父幼老卵、『参註』瞎道本光、『私記』雑華蔵海、など

 

洞山五位: 正位却偏 ◓・偏位却正 ◒・正位中来 ●・偏位中来 ○・相兼帯来 ⦿、◍

曹山五位: 正中偏・偏中正・正中来・偏中至・兼中到

汾陽五位: 正中来・正中偏・偏中正・兼中至・兼中到

石霜五位: 正中偏・偏中正・正中来・兼中至・兼中到

 

偏正五位君臣五位功勲五位王子五位

 

四料簡 ①奪人不奪境脱 ②奪境不奪人 ③人境両倶奪 ④人境倶不奪

四賓主 ①主中賓    ②賓中主   ③主中主   ④賓中賓

 

 正位、即ち空界なり。本来、物無し。

 偏位、即ち色界なり。万象の形有り。

 正中偏は、理に背いて事に就く。

 偏中正は、事に舎して理に入る。

 兼帯は、…正に非ず偏に非ず。故に虚玄大道無著真宗と曰う。従上の先徳、此の一位を最妙最玄と推す。    『曹山五位君臣旨訣』

 

我れ、今、独り自ら往(ゆ)く、処々に渠(かれ)に逢うことを得たり。

渠、今、正に是れ我れ。我れ、今、是れ渠にあらず。   洞山良价『過水の偈』

汝これ渠にあらず、渠まさにこれ汝。『宝鏡三昧』

 

 こころみにいはく、さるのうらは古鏡にて背すべし、古鏡のうらは獼猴(みこう)にて背するか。古鏡のうらを古鏡にて背す、さるのうらをさるにて背す。各背一面のことば、虚設なるべからず、道得是(どうてぜ)の道得なり。しかあれば、獼猴(みこう)か、古鏡か。畢竟作麼生道(ひつきようそもさんどう)。われらすでに獼猴か、獼猴にあらざるか。たれにか問取せん。自己の獼猴にある、自知にあらず、他知にあらず。自己の自己にある、摸索およばず。  正法眼蔵』「古鏡」

 

かつて仏法の道閫を行李せざるともがら、あやまりて洞山に偏正等の五位ありて人を接す、といふ。これは胡説乱説なり、見聞すべからず。  『正法眼蔵』「春秋」

 

 あるいは為人の手をさづけんとするには、臨済の四料簡・四照用、雲門の三句、洞山の三路・五位等を挙して、学道の標準とせり。

 先師天童和尚、よのつねにこれをわらふていはく、学仏、あにかくのごとくならんや。仏祖正伝する大道、おほく心にかうぶらしめ、身にかうぶらしむ。これを参学するに、参究せんと擬するにいとまあらず、なんの間暇ありてか、晩進の言句をいれん。まことにしるべし、諸方長老無道心にして、仏法の身心を参学せざることあきらけし。 先師の示衆、かくのごとし。『正法眼蔵』「仏道

 

君見ずや絶学無為の閑道人、妄想を除かず真を求めず、無明の実性即仏性幻化の空身即法身

行亦禅坐亦禅、語黙動静、体安然。『証道歌』

 

 雪峯、洞山に在りて典座と作る。一日、米を淘ぐ次、洞山問う、「砂を淘げて米を去くか、米を淘げて砂を去くか」と。峯云う、「砂米一時に去く」と。洞山云う、「大衆は箇の什麼をか喫す」と。峯、盆を覆却す。山云う、「子は他後、別に人に見え去ること在らん」と。上古、有道の高士、自手ら精至し、之を修すること此の如し。後来の晩進、豈之を慢るべけんや。先来云う、「典座は絆を以て道心と為す」と。『典座教訓』

 

潙山(いさん)和尚,始め百丈(ひゃくじょう)の会中(えちゅう)に在って典(てん)座(ぞ)に充(あ)つ。百丈,将に大潙(だいい)の主人を選ばんとす。 乃ち請(こ)う首座(しゅそ)と同じく衆に対して下語(あぎょ)して,出格の者往く可し。百丈遂(つい)に浄(じん)瓶(びん)を拈(ねん)じて,地上に置いて問を設けて云く,喚んで浄瓶と作(な)すことを得(え)ざれ。汝喚んで甚麼(なん)とか作す。首座乃ち云く,喚んで木突(ぼくとつ)と作す可からず。百丈却(かえ)って山に問う。山乃ち浄瓶を趯倒(てきとう)して去る。百丈笑って云く,第一座, 山子(さんす)に輸却(ゆきゃく)せりと。因(よ)って之に命じて開山と為す。『無門関』