『正法眼蔵・行持』講義

あるがいはく、衆生利益のために貪名愛利すといふ、おほきなる邪説なり。附佛法の外道なり、謗正法の魔黨なり。なんぢいふがごとくならば、不貪名利の佛祖は利生なきか。わらふべし、わらふべし。又、不貪の利生あり、いかん。又そこばくの利生あることを學せず、利生にあらざるを利生と稱ずる、魔類なるべし。なんぢに利益せられん衆生は、墮獄の種類なるべし。一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙を利生に稱ずることなかれ。しかあれば、師號を恩賜すとも上表辭謝する、古來の勝躅なり、晩學の參究なるべし。まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。

先師は十九歳より離郷尋師、辨道功夫すること、六十五歳にいたりてなほ不退不轉なり。帝者に親近せず、帝者にみえず。丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師號を表辭するのみにあらず、一生まだらなる袈裟を搭せず、よのつねに上堂入室、みなくろき袈裟綴子をもちゐる。

衲子を教訓するにいはく、參禪學道は第一有道心、これ學道のはじめなり。いま二百來年、祖師道すたれたり、かなしむべし。いはんや一句を道得せる皮袋すくなし。某甲そのかみ徑山に掛錫するに、光佛照そのときの粥飯頭なりき。上堂していはく、佛法禪道かならずしも他人の言句をもとむべからず、ただ各自理會。かくのごとくいひて、僧堂裏都不管なりき、雲水兄弟也都不管なり。祗管與官客相見追尋(祗管に官客と相見追尋)するのみなり。佛照、ことに佛法の機關をしらず、ひとへに貪名愛利のみなり。佛法もし各自理會ならば、いかでか尋師訪道の老古錐あらん。眞箇是光佛照、不曾參禪也(眞箇是れ光佛照、曾て參禪せざるなり)。いま諸方長老無道心なる、ただ光佛照箇子也。佛法那得他手裏有(佛法那んぞ他が手裏に有ることを得ん)。可惜、可惜。

かくのごとくいふに、佛照兒孫おほくきくものあれど、うらみず。