智源寺僧堂で「現成公案」講義(6)

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。

萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。

佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。

しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。

迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。

さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。

諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。

しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。

身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。 一方を證するときは一方はくらし。

佛道をならふといふは、自己をならふ也。

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。

萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

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