坐禅&随聞記37

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チャット記録:

08:39:02     From Kei-ichiro Imazai : 座禅を始める人にとってとても重要なことだと思います。一方で、最終的には自分が他力と思おうが自力と思おうが、それこそどうてもよくなるのではないでしょうか。本人がどういうつもりで坐ろうが、坐り続けていれば同じことのように思います。
08:48:05     From Kei-ichiro Imazai : 確かに、正身端坐を「ねらう」というからには自力のはからいですね。一種の「神下ろし」でねらってるうちに、自然に「坐禅が私をしている」という状態になるということでしょうか。もちろん、トランスするようなことではありませんが。
08:58:18     From Kei-ichiro Imazai : 藤田老師の身体ベースの坐禅というのは、坐るという動作があまりに簡単な動作なのでわかりにくいのではないでしょうか。むしろヨガの頭立ちや藤田老師の綱渡りのようなことをすれば、よくわかるのではないでしょうか。やろうと思った時点では自分のはからいですが、バランスが取れて安定した感じがしているときには、自力よりもバランスという自分ではない作用がその体勢を成り立たせていることを明確に感じさせてくれる、あのことではないかと思います。
09:06:30     From Masumi Sakikawa : 今の話ですが、ボアダムと悟りがすこし似ているのではないでしょうか?
09:10:40     From Kei-ichiro Imazai : 寂静を涅槃と感じるか、退屈と捉えるか、かなりシンプルで明快な線引きのように思います。
09:17:46     From Zhang Xuan : Thanks for the comment. It is a good point about boredom and enlightenment. I think maybe a state where there is no stress can feel like boredom sometimes, but it is still a good state. I think I had this state more often as a child, but remember being bored more often.
09:20:57     From Zhang Xuan : I found the Ajahn Chah quote:
09:21:11     From Zhang Xuan : When we come to see impermanence, unsatisfactoriness and not-self in ourselves, in this body and mind, in this world, then we'll find that a kind of boredom will arise. This isn't the everyday boredom that makes us feel like not wanting to know or see or say anything, or not wanting to have anything to do with anybody at all. That isn't real boredom, it still has attachment, we still don't understand. We still have feelings of envy and resentment and are still clinging to the things which cause us suffering.
09:21:21     From Zhang Xuan : The kind of boredom which the Buddha talked about is a condition without anger or lust. It arises out of seeing everything as impermanent. When pleasant feeling arises in our mind, we see that it isn't lasting. This is the kind of boredom we have. We call it nibbidā or disenchantment. That means that it's far from sensual craving and passion. We see nothing as being worthy of desire. Whether or not things accord with our likes and dislikes, it doesn't matter to us, we don't identify with them. We don't give them any special value.
09:21:26     From Kei-ichiro Imazai : ヴィパッサナーと坐禅は違うもののように見えて、最終的に目指すのは、結局、「無我」だという点では一致しているように思います。ただ、ヴィパッサナーの最終段階の「悟り」ではただ生きているだけで、何も感じない、考えない状態で「無我」を目指すのに対し、禅では諸法実相の中に自分もあって、世界と自分の区別がなくなる状態で「無我」を目指すのではないでしょうか。ネルケ老師がしばしばおっしゃる「風景」という言葉が大変重要なヒントだと思います。
09:25:46     From Kei-ichiro Imazai : サキカワサン、面白いご指摘だと思います。
09:26:19     From Kei-ichiro Imazai : 実際、現代の著名なお坊さんは皆高学歴でインテリですよね。
09:27:55     From Kei-ichiro Imazai : そして、ここにおられる方も、皆さん教養と見識のしっかりした方ばかりですよね。
09:33:09     From Kei-ichiro Imazai : 衆生救済を標榜する禅の課題だと思います。坐禅大乗仏教の皮を被った小乗仏教になりがちなのではないでしょうか。それを穴埋めするために、祈祷してあげるとか、お葬式してあげるというのは根本的な解決とは言えないのではないでしょうか。少しきつい言い方になりました。すみません。
09:40:39     From Kei-ichiro Imazai : 以前、スイミング仲間のおじさんのが「毎日がベスト」と言いなが泳いでいました。「体力落ちる一方だから」だそうです。坐禅の今ここを感じさせられました。
09:47:47     From Kei-ichiro Imazai : 悟った人にとっての慈悲とは、趣味かもしれないと思います。一方で、無我の人にとって慈悲以外にロクなな楽しみがないのではないかとも思っています(笑)。
09:48:48     From Kei-ichiro Imazai : おそらく、小乗であればチャーのようになるかと思います。
09:53:09     From Kei-ichiro Imazai : 止と観の違いは、Default mode networkの働き具合の違いで決まるように思います。
09:58:19     From Kei-ichiro Imazai : 止(サマタ)は特定の対象に主体的に注意集中し、観(ヴィパッサナー)は分散注意であると思います。両者は注意の向け方の違いであって、ヴィパッサナーと坐禅が同じ分散注意であっても、その後の認知的処理が一緒だとは限らないのではないでしょうか。
10:04:38     From Zhang Xuan : I have a deadline for a paper on Oct 31 before the sesshin so it is difficult to present now.
10:05:50     From mori : ありがとうございました。
10:05:56     From Kei-ichiro Imazai : ありがとうございました