オウムから10年⑥「真髄から腐ってしまった禅宗」

 オウムの一般信者を「『日常底』において受け入れるのを基本とする」ことから臨黄教団のシンポジウムが出発しました。そして「その対応は、現在彼らが精神的社会的に抱えている特殊事情をよく配慮して彼らのためにも慎重になすべきであるが、基本的には、檀信徒および一般人に対してなすべき布教活動と本質的に同一のものであるべきである」と続きましたが、しばらくしてそんなことが無理であるということに気づきました。なぜかと言えば、肝心な 「檀信徒および一般人に対してなすべき布教活動」がそもそも出来ていないからです。

 

 オウム事件に関するシンポジウムの最後、「臨黄教団に共通する基本的な問題、例えば後継者の育成および寺族に関する問題、現代の教義および布教に関する諸問題など」に付言されました。何の問題かと言えば、今のお寺から仏教(仏の教え)が消えてしまったと言うことです。仏教が存在しないお寺に救いや癒しなどを求める人が来ないのも、無理のない話です。まずシンポジウムのレポートから引用しましょう。

 

 「「われわれ」は開山祖師の恩によって寺院の住職となり、開山祖師の縁故によって教団を組織してきたが故に、開山祖師の御徳の顕彰には熱心であった。しかし、開山祖師がそこに寺院を建立してなそうとされた真意、すなわち、歴史的現実社会(衆生)の安寧と救済というその誓願を、「われわれ」の時代において受けとめ直し生かすという真の顕彰の努力を欠いてきたのではないか。臨黄の各寺院・各教団が、今日ではもはや、社会の一風景にすぎなくなったと言われる原因は、「われわれ」宗門人のかかる努力と自覚の欠如にあることを深く反省する必要がある。」

 

 御開山・祖師方を拝みながら、その真意を継ごうとしない現代のブッキョウ。どうしてそうなったかといいますと、原因としてまず「檀家制度」が述べられています。

 

 「寺院の大半は、軽重の差はあれ基本的に、現在もなおいわゆる檀家制度、言い換えれば、祖霊をまつる“家の宗教”に依存する仕方で存続がはかられ、住職の布教活動も檀家の葬式と法事とを執り行なうのを主たる事としている。・・・「われわれ」の問題点は、これをただ江戸時代の“寺受け制度”以来の社会習俗そのままに受容し、そこに安住して、何ら基本的な見直しをなさずに今日まで来たという点である。換言すれば、「われわれ」の意識には近代という時代が明確には入っていないということである。・・・「われわれ」は自らの基本的立場を、「直指人心・見性成仏」という個々人の最も主体的な宗教的自覚の事実に見出だし、「一箇半箇」という峻厳きわまりない「見性」のための主体的教育課程を伝統的に堅持し実践してきながら、この自らの立場と実践経験を近代的な“個人の信仰”の確立に生かし展開する教義ならびに布教方法を構築せぬまま今日まで無為にすごし、ただ檀家制度と“家の宗教”の旧習に安んじてきたのではないか。しかし単に旧態のままなる“家の宗教”は、情報化の急速な発達とグローバルな経済活動の展開など生活環境の変化によって「われわれ」の足下でその崩壊の度をはやめてきている。このような歴史的社会的情況下にあってなお禅宗寺院ならびに宗門の存在意義を発揚せんとするならば、「われわれ」一人ひとりが自らの意識を革新して檀家制度と布教活動を根本的に見直し、檀家との新たな関係を構築して行く必要がある。」

 

 つまり、現在の寺院は本来の役目であった各個人の精神的な要求を満たすことなく、代々の祖先崇拝の文化をもつ日本で必要とされてきた「葬式・法事」というサービス業を営む会社に成り下がったというのです。そして、そういう「商売寺」はもはや時代遅れになってしまいました。寺院の無力化の理由の一つとして、禅僧の妻帯が挙げられています。

 

 「禅僧もいまや、その大半の現状において、妻帯し、しかも檀家制度に立脚している寺院の現状において寺庭婦人の持つ役割には種々の面において大きなものがある。しかし、この現状に多くの問題が含まれていることも事実である。基本的な問題としては、禅僧の妻帯そのものが教義上いまだに明確にされておらず、寺庭婦人の地位もただ現状の追認という仕方でのみ各教団が是認しているにすぎないという問題がある。にもかかわらずと言うべきか、むしろその故にと言うべきか、他面では、寺院がいわゆる寺族にとって快適な家庭と化す傾向が強まっており、檀信徒にとってすら気やすく出入りできない私的な空間になりつつある。」

 

 お寺といえば今や「仏の教えを実践する道場」ではなく、単なる葬式場です。出家の建前からその家庭・家族を「寺庭・寺族」と呼びますが、中身はお葬式屋の自宅です。その「ご自宅」には悩める若者どころか、お寺を昔から支えてきた檀家さんでさえ気安く出入りできないというのです。しかし、問題は各寺院にのみあるのではなく、包括教団中区にもあります。

 

 「従来、各教団は・・・この事への対応は各寺院住職および布教師各人の見識にいわば委ねるという仕方で、この問題の本格的な検討を回避してきた。しかし、事態はすでにかかる教団の姿勢を許さないところに至っており、布教の最前線にいる各住職の教団中枢(本山)の宗務行政に対する信頼の喪失は今や絶望にかわりつつある。特にこの傾向は、ある面では当然の事ながら、各教団の若く覇気ある住職たちに強く、彼らは、もはや教団を頼りにせず、教団とは無関係に独自の組織を形成して、いま自分たちに何が出来、何をなさねばならぬかを真剣に模索し始めている。」

 

 教団はその真髄から腐っていますから、数は少ないにしても心ある僧侶はだんだん組織から離れようとします。当然と言えば当然な動きです。日本の宗教の展開は教団中区が設ける研究機関などにはとうてい期待できるものではありません。そんなカネの無駄遣いばかり考えている組織と関係なく、ひたすら自分の問題に向かって掘り下げている若い彼らの肩に禅の将来がかかっています。