オウムから10年⑨「私の仏教理解」

 「オウムが仏教ではない」といわれれば、(オウム以外の)仏教徒なら誰でもうなずくはずです。ところが、オウムを異端視しているその張本人がどうか、という問題もあります。そして、そもそも「仏教とは何か」ということがハッキリしなければ、手も足も出ません。

 そこで、私も日本仏教の批判を続ける前に、先ず自分の仏教理解を整理したいと思います。

 

 同じ仏教でもテラーヴァーダ仏教、大乗仏教チベット仏教など、色々ありますが、その元祖はいうまでもなく2500年前にインドで生まれ、35才で菩提樹の下で覚り、長い行脚の末80才でなくなった釈尊です。そして釈尊の教えの基本となったのは「苦・無常・無我」の三宝印です。釈尊はまず「一切皆苦」ということに気づき出家されましたが、「一切皆苦」は仏教の出発点のみではなく、実は仏教の終着点でもあります。仏教でいう「苦」とは「物足りない」という意味ですが、人間はたえず物足りよう」と思えば思うほど「物足りない思い」をします。人間とは満足しきれない動物です。いや、人間ばかりではなく、すべての生き物は満足を追い求めながら、満足しきれないように出来ています。そういうふうにできていますから、「物足りない」という思いがあるのはごく当たり前のことであり、それでいいのです。人間の「物足りない」気持ちは「無常」とも関係しています。一時的に「楽しい思い」や「幸せな気分」を味わっても、そういう「楽しさ」や「幸せ」は無常であり、手につかみ取ることは出来ないからです。しかし、「無常」とは決してマイナスなものではなく、あくまで中性です。「諸行無常」といって、釈尊はすべての現象の縁起による移り変わりを説いています。そこに一つとして止まるものはありません。なぜならば、「諸法無我」だからです。物事に実体がなく、縁起によって生じた現象は縁起によって滅してゆくのみです。「私が生きる」「私が死ぬ」・・・この実体をもった「私」自体が幻想にすぎないと釈尊が説いています。仏教の実践はこの「私」という幻想から覚めることを目指します。つまり、仏道は「我」の否定から始まります。

 

 仏教者が「霊魂」の話を外道として否定する理由もここにあります。無我に生きてこそ仏教の実践が出来るのです。死者にとって仏教は無用であり、仏教にとっても死者は無用です。釈尊は「死後の世界」など一度たりとも相手にしたことはありません。そうです、死んだ人を「ホトケ」と呼びその霊魂を祭り上げることは決して仏教ではありません。土着の風習に「仏教」というレッテルを貼ったにすぎません。仏の教えの替え玉として、その極めて反仏教的な風習が日本で今も幅をきかせているのです。ですから、サリン事件が起こる前に、日本の宗教学者がオウムを「日本の既成仏教よりはるかにまじめな仏教」として評価したのも理解できないわけではありません。