沢木老師は身體の整え方の最後に「坐禅にかゝる前に目を洗ひ、足を洗って、爽やかな氣持になって道場に入るがよい」といっています。
瑩山禅師の「坐禅用心記」にも「常に目を濯ひ足を洗ひ身心閑静なるべし」 とありますが、目はよく禅における「悟り・証」、足は「修行」のたとえとして使われています。そして、「不染汚の修証」は道元禅の要です。修行をも、悟りをも汚さないということです。つまり、「悟り」という目的を得るために「修行」という手段を用いるのではなく、修証一等の身心脱落を行ずるのです。しかし、瑩山禅師の言う「常に目を濯ひ足を洗ひ身心閑静なるべし」が単なる宗教哲学ではないことは言うまでもありません。実際に目を洗ひ、足を洗いなさいというのです。ところが、これはいうほど簡単なことではありません。
6月の「火中の蓮」 で見て来ましたとおり、接心という集中的に坐禅している5日間の間、1日2回の食事の後の30分の休憩を除けば、時間は全くありません。接心中に入浴もできません。夏は冷たいシャワーが浴びられますが、雲水はそんな時間すらありません。というのは、接心中にも各々の係の仕事を果たさなければならないからです。
顔を洗うことくらい、4時の振鈴より充分前に起きていれば、誰だってできます。ところが、洗面所では足洗えませんし、日中で風呂場で洗いたくても他にやることは山ほどあります。安泰寺に入門した当初、私はさっそく2頭の山羊を任されました。メス山羊の「ゆき」は朝乳を搾り、外へ出して彼女の好きそうな草が生えているところでつなぎます。夕方は再び小屋の中に戻し、乳を搾るのです。毎日一生懸命に彼女の世話を見ているのに、乳を搾るのがくすぐったいせいか、ゆきは足で乳の下におかれているバケツや私の頭をけっ飛ばそうとしているのではありませんか。上の写真で見られる山羊の身体を跨いでの「乳搾りテクニック」を使うと、けっ飛ばされないで済むのですが、山羊が途中で排便欲にでも襲われたらバケツの中に・・・。ですから、私はゆきを横から頭と肩で押さえながら両手で搾ることにしました。彼女の後ろ足は絶えずバケツを蹴ろうとしていますから、左の肘でそれをガードしなければなりません。このテクニックにはバケツの中にうんこが入らないという利点がありますが、代わりに自分の身体が山羊の足で蹴られ、うんこまみれになってしまいます。
ゆきの世話が済んだ後、オスの「太郎」の所に向かいます。彼は昼も夜も外でつなぎっぱなしでしたが、たまに場所を変えなければ、餌がなくなります。また、山羊はよくロープに足が絡まり、あるいは木の周りをグルグル回ってやがて動けなくなることがあります。人間の「葛藤」にもよく似たもので、少しばかり反対の方へ行けばすぐ自由になれるのに、「メーメー」とうるさく鳴くのです。太郎の助けに急いでいくと、彼もまた強い角で私を攻撃しようとしているのではありませんか。私の身体についている、愛する彼女の体臭が彼を挑発しているのでしょう。とにかく片手で彼の足を自由にし、あるいは木の反対の方へ回しながら、もう片手で自分の身を守らなければなりません。彼はゆきより強いばかりではなく、彼女よりもはるかに臭い!
やがて台所に戻ったら、搾った乳を竈で火を通して消毒しなければなりません。そして瓶にいれて冷蔵庫に。作業が終わった頃には、身体から自分の汗と山羊の臭いが漂っています。が、30分の休憩は特に過ぎています。足を洗うどころか、歯を磨く暇すらなく、坐禅堂の方へ急がなければなりません。こういう時にシャワーを浴びる時間があれば、私はもちろん、隣に坐っていた雲水達も喜んでいたのでしょう。
ここはまた「忍辱の婆羅蜜」が問われています。いつも一番坐禅がやりやすいような状況で接心ができるわけではありません。だからこその修行ですが、新米の私は愚痴の多い日々を過ごしました。5日間の接心が過ぎた後、私自身はもちろんのこと、袈裟や衣、坐蒲、蒲団はすべて「山羊臭い」。そうして接心が終わり、5日ぶりに入浴ができますと、はじめて「身心閑静」の境地が味わえます。