オウムから10年⑩「『本当の仏教』とは?」

 オウムが一時期「日本の既成仏教よりはるかにまじめな仏教」と日本の宗教学者に認められていた一方、「本当の仏教」ほど幻想のふくらんだ妄想がないのも事実です。がしかし、お坊さんの役割が葬式の一環、それ以上でも以下でもない、というのもどうかと思います。確かに、葬式の一環としてのお坊さん以上、日本の社会はブッキョウに求めていないようですし、お坊さんたちもそういった役割に安住しています。「ブッキョウ=お葬式」、そう割り切った以上、お坊さんは人間の本来の生き方を探ろうとしません。一般人はもとより、僧侶まで自分の人生の一大事の相談を精神科医に持ち込むのは各自の自由ですが、仏教を人生から切り離したのでは、私自身は空しいのです。例え日本の既成ブッキョウがそれを特に目指さなくなったとしても、また日本社会がそれをブッキョウから求めなくなったとしても、釈尊道元禅師のなそうとしたことを今、現在に合った形で表そうとしているのが安泰寺です。それは別に「まじめな仏教」でもなければ「本当の仏教」でもないのです。ただ「生きた仏教」でなければなりません。

 

 さて、私の理解している仏教の続きを書いてみたいと思います。先月は釈尊の教えの基本である三宝印に脚光を浴びせました。「苦・無常・無我」、この3つには後から「涅槃寂静」という4番目の法印が付け加えられました。「涅槃寂静」とは「苦・無常・無我」というつかみ所のない、満たされない現実の真っ直中にそのまま徹底して落ち着くことです。この落ち着きがあってこそ、仏教は単なるニヒリズムで終わらないで、やがて現実の中で前向きに生きることへの糸口を見つけたのです。が、すべての仏教がこの「涅槃」という概念を同じように解釈しているわけではありません。同じ「涅槃」という言葉でも、いろいろな解釈がありいろいろな落とし穴があるのです。

 

 まずありがちな解釈の一つは、「苦・無常・無我」を娑婆世界と見なし、「涅槃寂静」をそれを越えた別世界とすることです。そうしますと、まさにオウムの「無常を乗り越えることが修行の目的=解脱」ということになります。涅槃の中には苦も無常も無我もなく、「浄・楽・我・常」(汚れがなく、苦もなく楽であり、実体があり、常であるということ)とされています。もしそれが本当であれば、「一切が…諸行が…諸法が…」「苦・無常・無我」であるという釈尊の出発点はひっくり返され否定されてしまうことになります。私はそんなはずがないと思います。

 

 涅槃とは「苦・無常・無我」を乗り越えるというのではなく、むしろそれを全面的に受け入れ、その中に落ち着くことです。ですから、涅槃が苦の世界と別の所にあるのではなく、苦の世界をも抱擁しているのが涅槃です。