ご無沙汰しています

 最後に「火中の連」をアップデートしてから半年間が過ぎてしまいました。この間、英語では
 A broken precept 「破戒 (オウムから13年・その19)
 Crossing the legs (6) 「足の組み方(6)(大人の修行・その40)
 Danka-seido 「檀家制度 (オウムから13年・その20)
を書きましたが、なぜかこれらの文書を日本語になおす時間と元気がありませんでした。5月までは例年の田植えに加えて、先師の七回忌の準備で忙しかった日々が続きました。6月の接心明けから、妻と子供を連れてヨーロッパを旅しました。夏のドイツは15年ぶりでした。日本の夏に比べ、びっくりするほど涼しく(というより、寒いくらい)、北ドイツに住んでいる大心さんの家では薪ストーブをつけてもらいました。ドイツ、スイスとイタリアで友達や親戚を訪れると共に、フランスとオランダにも脚を伸ばし接心をしたり講演をしたりしました。全部で接心が4回、講演が7回、ラジオ出演も2回ほどたのまれ、私が考えていなかった大きな反響がありました。2年前にドイツで本を出版し、それが興味を引いたという関係もあったでしょう。一方、当初考えていた落ち着いた家族旅行はなかなかできませんでした。その様子は写真集でご覧になれます。

 8月9日、関西空港で「帰国」し(本来なら、ヨーロッパ旅行の方を「帰国」といい、こちらを「再入国」というべきでしょうが)、毎年手伝わせてもらっている九州でのお盆の棚行も終わって、8月17日に10週間ぶりに安泰寺に帰ってきました。私の留守の間、参禅者3人が寺を守り、例月の接心もきちんと努めていました。作務の方でも大きな失敗はありませんでしたが、なにしろ彼らにとって初めての安泰寺の夏ですから、行き届いていない部分もあります。冬を越すために最低限必要な作業はこれからし、来年の参禅再開始に向けて体制を整えたいと思います。そして「火中の連」の続きも少しづつ書きたいと思います。

 しかし、英語の「大人の修行」と「オームから・・・」シリーズをそのまま日本語に訳して、連載を続けてもはたして意味があるのだろうかという疑問が湧いてきました。2003年の5月から書き続けているこの連載は、最初は安泰寺の叢林内の問題定義のつもりで書いていました。つまり、安泰寺に何年居続けても、「大人」の態度で居ない限り、何の意味のないということがこの「大人の修行」の言いたいことです。その「大人の態度」というのは、まず、なのために自分が安泰寺に来ているのか、という問いに対して、自分自身が答えない限り、他には誰も答えてくれないと言うことです。そういう意味でも安泰寺での修行はどこまでも「自分の修行」であり、上から下へと強制的「させられる」ような修行ではありません。そして、「自分の修行」ばかりではなく、「自分の安泰寺」でなければなりません。「安泰寺をオマエが創る」というのは、各自の努力があって責任感があって初めてこの寺が修行道場として成り立つと言うことです。また、ここで何が学べるかは各自次第であって、進歩するのも進歩しないのも本人の責任です。「安泰寺を創る」といっても、みんながばらばらに各自の安泰寺を創るのでは、和合僧の叢林は成り立ちませんので、まず自分自身を忘れることが大事です。「オマエなんか、どうでもいい!」ということです。自分のことを忘れ、周囲に目を向けるのも「大人」の大きな意味の一つです。

 ところが、これらのことを書いているうちに、国内よりも外国からの反響は強かったです。今は英語だけではなく、ポーランド語にもロシア語にも連載が訳されています。それはたぶん、これらの諸問題は何も安泰寺だけの問題ではなく、少しずつ成長していく西洋仏教の問題でもあるからです。アメリカにもヨーロッパにも60年代から禅が盛んになり、今はだいたいどこの街にも坐禅道場があるのですが、その修行の仕方が必ずしも成熟しているとは言えないのです。人間で例えるなら、ちょうど思春期ではないかと思います。ですから、「修行とは何か」「大人とは何か」はちょうど今、彼らも問い直しているところです。しかし日本はどうでしょうか。勿論、日本にもそういう問題意識を持った人たちはいないわけではありませんが、どちらかといえば少ないでしょう。ですから、あまり専門的な禅修行の話とか、曹洞宗教団のあり方の話をしても、理解されていないような気が致します。今はむしろ、ごく初歩的な話、そもそも仏教徒はどういう教えなのか、というところから出発しなければならないと思います。

 言うまでもなく、日本は仏教国です。少なくとも、仏教国のはずです。西洋はそうではなく、大半がキリスト教です。ユダヤ教イスラム教もありますが、同じ一神教です。仏教徒は教えも実践も大分違います。それではなぜ、英語の方では専門的なことを書いて、日本語で初歩的なことを書こうとするのか。それは、西洋でわざわざ仏教を修行しようとする人は、「何となく」ではなく、よほどの理由と経緯がないかぎり、仏教を学ぼうとしないからです。つまり、初歩的な勉強は自分でもうすでにしているのです。パリ教典から始まって色々な教典を読みあさり、テラヴァーダ仏教にも手を出し、チベット仏教にも手を出すというのは決して珍しくありません。ただ、専門的な知識はあまりありませんし、実際の日本の僧堂のあり方や日本の教団の事情と諸問題はほとんど分かっていません。日本はそうではありません。生まれながら仏教徒です。空気と一緒に日本で伝わってきた仏教を吸っているようなものです。しかし、その仏教は決して理論的に整理された仏教ではなく、一つの風習のようなものです。その風習の中には、決して仏教的でないものも、場合によっては反仏教的なものまでも混じっています。つまり、誤解だらけの仏教です。逆に日本仏教の現実問題、真面目な修行者がいないこと、お坊さんに信仰のないこと、お金だけが本尊になっていること等々は割と広く知られています。しかし、そもそも仏教徒は何の教えだったのか、仏教を修行するとは何をするかはほとんど理解されていないのではないでしょうか。すくなくとも、一般の日本人が理解している「仏教」とドイツ人の私が理解し修行しようとしている仏教はかなり離れているようです。一般の方々と話していると、特に夏の棚行で人の家に上がって仏壇を拝ませてもらうと、つくづくそう思います。

 そこで、日本語の「大人の修行」と「オームから・・・」シリーズの愛読者には申し訳ございませんが、続きは英語でしか書きません。日本語では次回からまず初歩的な「仏教とは何か」という整理から始めたいと思います。その整理の結果として、あるいは私自身がいかに仏教を理解していないかを暴露してしまうことになるかもしれません。