わたし次第、あなた次第

仏道をならふというは、自己をならふ也(なり)。
自己をならふというは、自己をわするる也。
正法眼蔵・現成公案


 永平寺の後開山、道元禅師の言葉の中でももっとも有名な一節です。
仏道(ぶつどう)」とは二千五百年前に釈尊が開かれた悟りの内容です。仏=覚者、道=智恵ですから、仏道とは。「ほとけのみち」ではなくて、目がはっきり覚めたときに見える、曇りのない現実の光景です。これについて学ぶということは、自分自身を学ぶことだというのです。仏教とはそもそも、そういう宗教であったはずです。いや、宗教というよりは、生きる態度といったほうが正しいかもしれません。仏教は、自分が自分に目をさめる行為です。釈尊はあくまでもその元祖に過ぎず、信仰の対処ではありません。実物見本です。この見本を参考にして生きなければならないのはこの私であり、そのあなたです。
 私が今から二十年前にドイツから来日した理由は、仏道を求めたことのほかにありません。「何のために生きなければならないのか、そもそも人生の意味とは?私と?」、そういった疑問を禅仏教で解決しようとしていたのです。一九九〇年にようやくたどり着いたのが、今もいる安泰寺です。当時の住職の挨拶は「安泰寺をお前がつくる」という一言でした。
 これにはびっくりしました。答えを師匠が教えてくれるのではない。先輩も助けてくれない。自分自身が求め、自分自身が問われ、自分自身が答えなければならない、そういう厳しさは仏教にあります。師匠も先輩もまた、一つの実物見本にすぎません。それを鏡として、私が学ばなけれ意味がない、そういう意味合いの励ましであったとお思います。
 「安泰寺をつくる」とはすなわち、「自分の人生をつくる」ということでもあり、周りの世界をつくることでもあります。この私が変わらなければ、世の中が変わるはずがありません。私が変われば、世界が変わります。
 言うのは簡単ですが、その実践が決してたやすくないのです。安泰寺に入門して二年ほどたったころ、行き詰まりました。安泰寺をつくろうという意識はあるものの、何もかも自分の思うとおりにはなりません。そのとき師匠が諭してくださいました。
 「お前なんか、どうでもいいのだ!」
 えっ、安泰寺をつくるのはこの私ではなかったっけ?どうしてこの私が今度、「どうでもいい」といわれなければならないのか。最初はそういう疑問もありましたが、よく考えて今たら、この「私」という思いを手放して、初めて自分も変わり、世界も変わるのです。自分を忘れてしまうからこそ、自分で「今・ここ」、この世界がつくれるのです。現に、安泰寺には常に十人前後が滞在しますが、十人が十人ともばらばらに安泰寺を作ろうとしても、うまくいくはずがありません。各々が「自分」という思いを手放して、しかも積極的に、主体的に全体に関わって初めて共同体が成り立つのです。
 安泰寺の跡を継いで、住職になった十年前から、私も弟子に教えています。

 「安泰寺をお前がつくる」
 「お前なんか、どうでもいい」
 この態度をサッカーチームの精神に例えることもあります。個性豊かな、優秀な先週が十一人集まったとしても、チームが一丸となっていなければサッカーでは勝てません。個人プレーではないのです。個人プレーではないけれども、最後にシュートを放つのはたった一人です。ですから、チームのために自分を忘れてしまうと同時に、このチームは渡し次第だ、この私がチーム全体を背負わなければという強い責任感も要求されます。強いチームなら、フォーワードも守備のことまで考え、ディフェンダーもゴールを狙うときがあります。一人一人の選手が自分の役のみを演じているのではなく、全員がすべてのポジションと連結して力を発揮できるチームがあれば、最強でしょう。
 道元禅師はもちろん、サッカーのサの字も知りませんでしたが、 

「一珠(いっしゅ)走盤(そうばん)の自己」
 という言葉も残しています。自己とは、あのサッカーフィールドで飛び回っているボールのようなものだといっています。小さな「私」というポジションではなく、フィールド全体が、出会うものすべてが自己です。今年は世界制覇を果たしたなでしこジャパンが全国民に勇気を与えましたが、これからの日本もそういうチームになれるのでしょうか。残ながら日本丸の監督たちにはあまり期待ができそうもないので、すべて私とあなた、この国に住んでいる一人一人の市民にかかっています。国を立て直すためには各々が小さなエゴを忘れてしまい、全体を把握し、積極的に働きかけなければならないのです。