少欲・知足

知足の人は、地上に臥すと雖も猶安楽なりと為す。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦意に称わず。不知足の者は、富むと雖も而も貧しし。知足の人は、貧ししと雖も而も富めり。

正法眼蔵・八大人覚)

 

 今から十年前、二〇〇一年の夏のことです。師匠の許(もと)で八年間の修行を終え、安泰寺の法を嗣(つ)いだ。そろそろ、ドイツに帰る時期が来た、と思いましたが、考えなおしました。

 「ドイツにはお寺はないけど、坐禅道場がすでにたくさんある。日本にはお寺こそたくさんあるけど、坐禅道場はない。在家の人と一緒に、毎日坐る道場を日本で作ってみたい」

 在家の方が坐禅できるお寺はそれほど多くありません。「月に一度、第三日曜日で坐禅会を開いています」、というのはともかく、毎日、いや週に数回でも和尚さんと一緒坐れるような場所はほとんどありません。ヨガ道場なら日本にもあるのに、坐禅道場がないのはどうしたことでしょうか。

 安泰寺のような修行道場の場合、毎日朝と晩とそれぞれ二時間の坐禅に参加できますが、町から山に入ること十五キロ、最寄のバス停から未舗装の道路を登ること四キロです。それでは、仕事帰りでは気軽くよることができません。山の生活も静かでいいのですが、どうせ道場を開くなら大学生でも会社員でも参加できる大都会でやりたいと思ったのはそのためです。ところが、大都会の家賃は高いもので、私には住む場所を借りるお金すらありません。

 どうすべきか、安泰寺の山を下りて、悩みながら大阪城公園を散歩していました。そしたら、あちらこちらにブルーシートのテントが張られていて、多くの人たちが木々の間で暮らしていました。当時、大きな社会問題にもなっていたホームレスです。思えば、二五〇〇年前に釈尊は宮殿を出て、木下で坐禅をしていたのも公園でした。昔の禅僧の中で、橋の下で生活していた人も痛そうです。ならば、私がここのホームレスたちの見習いをして、同じ生活をしようと決めたのです。

 「こちらに、私もテントを張ってもよろしいでしょうか」

 思わず近くのホームレスのおじさんに声をかけてみました。

 「おぉ、かまわんよ」

 とすぐ許可していただき、大阪城公園で「ホームレス雲水」となりました。「流転会」と称して屋根も壁もない道場も開きました。近くのビジネスパークでインターネットがただで使えたので、毎朝六時からの坐禅会の情報をホームページに載せ始めました。仏典の翻訳も、自分の考えも、日本語、英語とドイツ語で世界中に発信しました。

 最初は一人で早朝の大阪城公園の堀の上で坐禅を組むことも多かったのですが、まったく苦になりません。午前中は托鉢に出かけたり、午後は秋空の下で読書をしたり翻訳をしたりしました。「一日のすべてはオレの時間、全世界はオレのポケットの中」という気持ちでした。新しい、自由な風に吹かれて、可能性は無限大に感じられました。

 あのときほど、人生が充実していたときはかつてなかったでしょう。まさに、仏教のいう「知足」です。今、日本で「小欲」や「知足」というと、「やせ我慢をしなさい」という風に解釈されることがあるようです。マイナス思考に聞こえるらしいですが、とんでもないです。我慢ではなく、開放です。よくという束縛から解放されれば、「なんだ、失うものは何もなかった」という気づきが待っているのです。

 道元禅師は正法眼像・八大人覚の中で釈尊の最後の説法を引用します。沙羅双樹の間に横になっていながら、釈尊は弟子に向かって「八大人覚」、つまり本当の大人(仏教用語の場合、「だいにん」と読みます)の八つの条件です。その第一番目が小欲です。

 

 多欲之人は、多く利を求むるが故に、苦悩も亦多し。少欲之人は、求むること無く欲無ければ、則ち此の患無し。

  (欲が多ければ多いほど、苦悩も多い。欲こそ少なければ、苦悩も少ない。)

 

入滅される前、釈尊は生きる秘訣を非常に簡潔に説かれています。続くのが冒頭に引用した「知足」です。「これでいい!」という実感です。すべてを手放してみたら、仏の手のひらの中に自分を再発見するというようなものです。

 残りの六つの条件は、「楽寂静(ぎょうじゃくじょう)(今ここ落ち着くこと・よそ見をしないこと)」「勤精進(ごんしょうじん)(自分で工夫し、努力すること)」「不忘念(ふもうねん)(自分は何をしようとしているのか、ハッキリ念頭におくこと)」「修禅定(しゅぜんじょう)(坐禅にうち負かせること)」「修智慧(大人の自覚を実践に移すこと)」「不戯論(ふけろん)(空論を止めること)」ですが、最初の「小欲・知足」があまりにも有名ですし、本当の大人の条件がそこに集約されている気がいたします。

 奇麗事ではありません。話を私自身に戻しましょう。

 大阪城公園でホームレス雲水をやりながら、十年ぶりに恋にも落ちました。相手は坐禅会に参加していた女の子です。二〇〇二年のバレンタインデーの夜、彼女と会う約束でしたが、この約束はついに果たせませんでした。この日の午後に師匠の訃報を聞いたからでした。ありあわせのものをバッグに詰めて、大阪駅から安泰寺のある浜坂に向かう電車に乗り込みました。

 彼女とようやく電話がつながった時、電車は風に揺られ、まるで空を飛ぶように餘部鉄橋を通過していきました。

「ごめんな、今日はもう会えないよ。」

 眼下では、日本海の波が荒れ狂っていました。