再び永井均さんの哲学について

永井均さんから、「存在と時間哲学探究1」という新しい御著書が届きました!

そこで再び、「≪私≫はなぜ私?」という問いについて、考察してみました。

二週間ほど前、私は次の問題を提起しました:

「〈私〉はなぜ私?」という問いは、誰の問いか。私の問い、それとも〈私〉の問いか。

私の今の気持ちとしては、その問題は解決されました!(これで本当に「解決」といえるかどうか、わかりませんが・・・)

どう解決したかといえば、「〈私〉」という言葉を、「現実」という言葉に置き換えるによって、 「私はなぜ〈私〉か?」という問は、「私はなぜ現実か」という問に変わります。その問いは誰の問かといえば、もちろん私の問でもあり、(今ここの問であれば)現実の問でもあります。

私が同じ問を、明日にも同じように問うたならば(あるいは、別次元のドッペルゲンガーとか、〈私〉ではなくなった場合の私(風間さんの質問)など)その問は字面上では同じ問でも、同じ問ではない。なぜならば、現実化が可能な無数の問の中で、「現に」現実の問は今ここの問だけであって、それ以外の問は「なぜ私が現実の私」「なぜ今が現実の今」という形をとったとしても、「現実ではない」という一番本質的な意味においてでは、けっして同じ問ではない。そして、永井均先生がおっしゃるように、この違いこそ、この問で問われている。

私をこの二週間で惑わせていたのは、「私(ネルケ無方)の中に宿っている別の〈私〉〉」という考えでした。

宿っている〈私〉はいわば「完全な受動的意識」のように、後ろで手が縛られ、猿ぐつわされ、考えることすら許されていない魂です(そういう意味では、キリスト教ヒンドゥー教の魂とは違います)。

宿われている私は、現にビデオの前で話している私=ネルケ無方です。しかし、このネルケ無方が〈私〉であることには気づいていないはず、と私は考えていました。それは間違いでした。

「宿っている私=〈私〉」「宿われている私=私(ネルケ)」という風に考えてしまうと、「『私はなぜ〈私〉か?』という問は、誰の問か」という二重の問に答えられなくなってしまいます。

つまり、

宿っている私=〈私〉

宿られている私=私

というのが間違いで、 むしろ

現実(いまここ)=〈私〉

私=私

でなければならない(はずです)。

「私はなぜ〈私〉か?」という問の意味は、「なぜこの私の世界だけが現実なのか」でした。

それは私の問であり、今ここにおいてのみ現実の問です。

途中からは、倫理の問題について話しています。

問題1:「現実の私が≪今ここ、この人≫しかないのに、そうして完全にエゴイスティックな生き方ができないのか。逆に、エゴイスティックになり切れないのに、どうして≪自他一如≫の実感もないのか?」

問題2:「今日の快楽のために、明日の≪私≫を犠牲にする人もいれば、その逆もいる。現実では明日の≪私≫の世界を現実の私の世界と連続しているようにとらえているのに、他者の世界をそう捉えていないのはなぜ?また逆に、ケチな人は明日の≪私≫のためにためているが、借金してまで人におごる人もいるのはなぜ?」

などについて、まとまらない考えを述べています。

最後の二本のビデオでは

「私が痛い」

という時の、様々な「痛い」と様々な「私」について考察します。

「痛い」そのものも、

「痛い」というラベルを張るものも、

それを「深い」に感じるのも、

それから逃れようとするものも、

それを我慢しようとするものも、

それを無視しようとするものも、

「時間はまだかなぁ」と思うものも、

「いまここ」になりきろうとするものも、

それを真上から、ジーと観察するものも、

すべては私であり、決して〈私〉ではないのです。

いや、現実であるという意味では、すべては私であり〈私〉ですが、曽我量尽さん的に言い換えれば、

すべての私は〈私〉であって、〈私〉は私でありえない。

どんな時でも、その時だけは「現実」ですが、その現実は時間内の出来事ではありません。