弁道話講義⑰

Ⓠ⑪ とうていはく、「この坐禅をもはらせん人、かならず戒律を厳浄(ごんじょう)すべしや。」

Ⓐ⑪ しめしていはく、「持戒梵行は、すなはち禅門の規矩(きく)なり、仏祖の家風なり。いまだ戒をうけず、又戒をやぶれるもの、その分なきにあらず。」

 

正法眼蔵随聞記一-二

亦云く、戒行持齋を守護すべければとて、強て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり。只だ是れ衲僧の行履、佛子の家風なれば、隨ひ行ふなり。是れを能事(よきこと)と云へばとて、必ずしも宗とする事なかれ。然あればとて破戒放逸なれと云(いう)には非ず。若し亦かの如く執せば邪見なり、外道なり。只だ佛家の儀式、叢林の家風なれば隨順しゆくなり。是を宗とする事、宋土の寺院に寓(ぐう)せし時に、衆僧にも見へ來らず。實(まこと)の得道にためには唯だ坐禪工夫、佛祖の相傳なり。是によりて一門の同學五眼房(ごげんぼう)故葉上(ようじょう)僧正の弟子が、唐土の禪院にて持齋をかたく守りて戒經を終日誦せしをば、敎て捨てしめたりしなり。

懷奘問て云く、叢林學道の儀式は百丈の淸規を守るべきか。然あれば、彼れはじめに受戒護戒を以て先とすと見へたり。亦今の傳來相承は根本戒をさづくとみへたり。當家の口訣(くけつ)、面授にも、西來相傳の戒を學人にさづく。是れ便ち、今の菩薩戒なり。然あるに今の戒經に、日夜に是を誦せよと云へり。何ぞ是を誦するを捨てしむるや。

師云く、しかなり。學人最とも百丈の規繩(きじょう)を守るべし。然あるに其の儀式は受戒護戒坐禪等なり。晝夜に戒經を誦し專ら戒を護持すと云は、古人の行履に隨て祇管打坐すべきなり。坐禪の時何れの戒か持たざる。何れの功德か來らざる。古人行じおける處の行履、皆深き心なり。私しの意樂(いぎょう)を存ぜずして、衆に隨ひ古人の行履に任せて行じゆくべきなり。

 

正法眼蔵随聞記一‐十六

問て云く、破戒にして虚く人天の供養を受け、無道心にして、徒に如來の福分を費やさんより、在家人に隨ふて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何ん。

答て云く、誰か云ひし破戒無道心なれと。只強て道心を發し佛法を行ずべきなり。いかに況や持戒破戒を論ぜず、初心後心を分かたず、齊しく如來の福分を與ふとは見へたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見へず。誰人か初めより道心ある。只かくの如く發し難きを發し、行じがたきを行ずれば、自然に增進するなり。人々皆な佛性あり。徒づらに卑下すること莫れ。

 

正法眼蔵随聞記一-六

或時、奘問て云く、如何是不昧因果底道理(如なるか是れ不昧因果底の道理)。

師云く、不動因果なり。

云く、なんとしてか脱落せん。

師云く、因果歴然なり。

云く、かくの如くならば因、果を引起すや、果、因を引起すや。

師云く、總てかくの如くならば、かの南泉の猫兒(みょうじ)を斬るがごとき、大衆既に道ひ得ず、便ち猫兒を斬却(ざんきゃく)しおはりぬ。後に趙州、頭(こうべ)に草鞋(そうあい)を戴(いただ)きて出(いで)たりし、亦一段の儀式なり。 亦云く、我れ若し南泉なりせば、即ち云べし、道ひ得たりとも便ち斬却せん、道ひ得ずとも便ち斬却せん、何人か猫兒をあらそふ、何人か猫兒を救ふと。大衆に代て云ん、既に道ひ得ず、和尚猫兒を斬却せよと。亦大衆に代て云ん、和尚只一刀兩段を知て一刀一段を知らずと。

奘云く、如何是一刀一段。

師云く、猫兒(みょうじ)是(これなり)。 亦云く、大衆不對の時、我れ南泉ならば、大衆既に道不得と、云て便ち猫兒を放下してまじ。古人の云く、大用現前して軌則を存ぜずと。 亦云く、今の斬猫は是便ち佛法の大用現前なり、或は一轉語なり。若し一轉語にあらずば山河大地妙淨明心と云べからず。亦即心是佛とも云べからず。便ち此一轉語の言下(ごんか)にて猫兒即佛身と見よ。亦此(この)詞(ことば)を聽て學人も頓に悟入すべし。 亦云く、此(この)斬猫兒(ざんみょうじ)即是佛行なり。

喚(よん)で何とか云べき。

云く、喚で斬猫と云べし。

奘云く、是れ罪相なりや否や。

云く、罪相なり。

奘云く、なにとしてか脱落せん。

云く、別別無見なり。

云く、別解脱戒とはかくの如を云か。

云く、然り。 亦云く、たヾしかくの如きの料簡(りょうけん)、たとひ好事なるとも無らんにはしかじ。

奘問て云く、犯戒の語(ご)は受戒已後(じゅかいいご)の所犯を云(いう)か、唯亦(ただまた)未受己前の罪相をも犯戒と云べきか。如何ん。

師答て云く、犯戒の名は受後の所犯を云べし。未受己前所作の罪相をば只罪相罪業と云て犯戒と云べからず。

問て云く、四十八輕戒の中に未受戒の所犯を犯と名くと見ゆ。如何ん。

答て云く、然らず。彼は未受戒の者、今ま受戒せんとする時、所造のつみを懺悔するに、今の戒にのぞめて、前に十戒等を授かりて犯し、後ち亦輕戒を犯ずるをも犯戒と云なり。以前所造の罪を犯戒と云にはあらず。

問て云く、今受戒せんとする時、まへに造りし所の罪を懺悔せんが爲に、未受戒の者に十重四十八輕戒を敎へて讀誦せしむべしと見へたり。亦下の文に、未受戒の前にして説戒すべからずと。此の二處の相違如何。

答て云く、受戒と誦戒とは別なり、懺悔のために戒經を誦するは猶是念經(ねんきん)なり。故に末受の者、戒經を誦せんとす。彼が爲に經を説かんこと咎あるべからず。下の文に、利養の爲のゆゑに未受戒の前にして是を説ことを制するなり。今受戒の者に懺悔せしめん爲には最も是を敎ゆべし。

問て云く、受戒の時は七逆の受戒を許さず。先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ。如何ん。

答て云く、實に懺悔すべし。受戒の時、許さヾることは、且く抑(よく)止門とて抑ゆる義なり。亦上の文は、破戒なりとも還(かえって)得受せば淸淨なるべし。懺悔すれば淸淨なり。未受に同からず。

問て云く、七逆すでに懺悔を許さば、亦受戒すべきか。如何ん。

答て云く、然あり。故僧正自ら所立(しょりゅう)の義なり。既に懺悔を許す、亦是受戒すべし。逆罪なりとも、くひて受戒せば授くべし。況や菩薩はたとひ自身は破戒の罪を受とも、他の爲には受戒せしむべきなり。