佐賀県曹洞宗青年会の「祖録を繙く会」で、『学道用心集』講義

 

学道用心集講義(1) 

ネルケ無方(2020年1月21日 於 佐賀県曹洞宗青年会「祖録を繙く会」)

 

菩提心を発すべき事

(1)右、菩提心は、多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名(付)くと。

(2)然(しか)れば乃(すなわ)ち暫くこの心に依つて、菩提心と為すべきものか。誠に其れ無常を観ずるの時、吾我の心生ぜず、名利(みょうり)の念起こらず、時光の太(はなは)だ速やかなることを恐怖(くふ)す、所以(ゆえ)に行道は頭燃(ずねん)を救う。身命の牢(かた)からざることを顧眄(こべん)す、所以に精進は翹足(ぎょうそく)に慣(ら)う。縦(たと)ひ緊那迦陵(きんなかりよう)讃歎(さんだん)の音声(おんじょう)を聞くも、夕べの風耳を払う。縦(たと)ひ毛牆西施美妙の容顔を見るも、朝(あした)の露(つゆ)眼(まなこ)を遮(さえ)ぎる。已(すで)に声色(しょうしき)の繋縛(けばく)を離るれば、自ずから道心の理致に合(かな)わんか。往古来今、或は寡聞(かもん)の士(し)を聞き。或は少見の人を見るに、多くは名利の坑(きょう)に堕(だ)して永く仏道の命(みょう)を失す。哀(かな)しむべし惜しむべし、知らずんばある可からず。

(3)縦ひ権実(ごんじつ)の妙典を読むことあり、縦ひ顕密の教籍(きょうじゃく)を伝うること有るも、未だ名利を抛(なげう)たずんば、未だ発心(ほつしん)と称せず。有(ある)が云く、菩提心とは、無常正等覚心なり、名聞利養に拘わる可からず、有が云く、一念三千の觀解なり、有が云く、一念不生の法門なり、有が云く、入仏界の心なりと。是の如くの輩(ともがら)は、未だ菩提心を知らず、猥(みだ)りに菩提心を謗(ぼう)す。仏道の中に於いて遠くして遠し。試(こころ)みに吾我(ごが)名利の当心を顧(かえり)みよ、一念三千の性相(しようそう)を融(ゆう)ずるや否や、一念不生の法門を證するや否や、唯だ、貪名(とんみょう)愛利の妄念(もうねん)のみ有りて、更に菩提道心の取る可き無きをや。

(4)古来得道得法の聖人(しょうにん)、同塵の方便(ほうべん)有りと雖(いえ)ども、未だ名利の邪念有らず。法執すら尚(なお)なし、況(いわん)や世執(せしゅう)をや。所謂(いわゆる)菩提心とは、前来云ふ所の無常を觀ずるの心、便(すなわ)ち是れ其の一なり、全く狂者の指(ゆび)さす所に非ず。彼の不生の念、三千の相は発心以後の妙行(みょうぎょう)なり、猥(みだ)るべ可らざるか。唯だ暫く吾我を忘れて潜(ひそ)かに修(しゅ)す、乃(すなわ)ち菩提心の親(した)しきなり。所以(ゆえ)に六十二見(けん)は、我(が)を以て本(もと)と為すなり。

(5)若し我見(がけん)を起こすの時は、靜坐(じょうざ)観察せよ。今我が身体内外(ないげ)の所有(しよ・う)、何を以つてか本(もと)と為(せ)んや。身体髪膚は父母に稟(う)く、赤白(しゃくびゃく)の二滴は、始終(しじゅう)是(こ)れ空(くう)なり、所以(ゆえ)に我(が)に非ず。心意識智、寿命を繋(つな)ぐ、出入の一息、畢竟(ひつきょう)如何(いかん)。所以に我に非ず。彼此(ひし)執(と)るべき無きをや。

(6)迷う者は之を執(と)り、悟る者は之れを離る。而(しか)るに無我の我を計(けい)し、不生の生を執(しゆう)し、仏道の行ずべきを行ぜず、世情(せじょう)の断ず可きを断ぜず、実法(じつぽう)を厭(いと)い妄法(もうほう)を求む。豈(あに)錯(あやま)らざらんや。

 

(一)菩提心を発すべき事

右、菩提心は、多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名づくと。

 

(二)正法を見聞(けんもん)して必ず修習(しゅじゅう)すべき事

   右、忠臣一言を献ずれば、數(しばしば)廻天の力あり。佛祖一語を施さば廻心せざる人莫(な)し。

 

(三)佛道は必ず行に依て證入すべき事 (天福二甲午(こうご)三月九日書す)(12340408)

  右、俗に曰く、學べば乃ち祿其の中(うち)に在りと。佛の言はく、行ずれば乃ち證、其の中に在りと。

 

(四)有所得の心(しん)を用つて佛法を修すべからざる事

右、仏法修行は、必ず先達(せんだつ)の真訣(しんけつ)を稟(うけ)て、私の用心を用いざるか。況や仏法は、有心(うしん)を以つて得可からず。無心を以て得べからず。

 

(五)参禅学道は正師を求む可き事 

右、古人云く、発心正しからざれば、萬行(ばんぎょう)空しく施すと。誠なる哉(かな)この言(げん)。行道(ぎょうどう)は導師の正(しょう)と邪とに依る可(べ)きものか。

 

(六)参禅に知る可(べ)き事 (天福甲午清明(せいめい)の日書す)(12340405?07?)

右、参禅学道は一生の大事なり、忽(ゆるが)せにす可(べ)からず。豈(あ)に卒爾(そつじ)ならんや。

 

(七)佛法を修行し出離を欣求(ごんぐ)する人は須らく参禅すべき事

右、仏法は諸道に勝(すぐ)れたり。所以に人之(こ)れを求む。

 

(八)禅僧の行履(あんり)の事

右、仏祖より以来(このかた)、直指(じきし)単傳(たんでん)、西乾(さいけん)四七、東地(とうち)六世(ろくせ)、絲毫(しごう)を添(そ)えず、一塵(じん)を破(やぶ)ること莫(な)し。

 

(九)道(どう)に向って修行すべき事

右、学道の丈夫(じょうぶ)は、先(ま)づ須(すべか)らく道(どう)に向うの正(しょう)と不正(ふしょう)とを知るべきなり。

 

(十)直下承当の事

右、身心を決択(けつちゃく)するに、自(おのず)から両般(りょうはん)あり、参師聞法(さんしもんぽう)と、功夫坐禅(くふうざぜん)となり。

 

夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無(へだてな)く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。坐禅せんと欲する時、閑静處(かんじょうしょ)に於いて厚く坐物を敷き、寛(ゆる)く衣帯を繋け、威儀をして齊整(せいせい)ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。

『禅苑清規・坐禅儀』

 

原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。

『普勧坐禅儀』

 

とうていはく、「この坐禅の行は、いまだ仏法を証会(しょうえ)せざらんものは、坐禅辨道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん。」

しめしていはく、「痴人のまへにゆめをとかず、山子(さんす)の手には舟棹(しゅうとう)をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。

それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて、釈迦如来、迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。すでに証をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝せる、初心の辨道すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。

しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば本証 手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる。

又まのあたり大宋国にしてみしかば、諸方の禅院みな坐禅堂をかまへて、五百六百、および一二千僧を安じて、日夜に坐禅をすすめき。その席主とせる伝仏心印の宗匠に、仏法の大意をとぶらひしかば、修証の両段にあらぬむねをきこえき。このゆゑに、門下の参学のみにあらず、求法の高流(こうる)、仏法のなかに真実をねがはん人、初心後心をえらばず、凡人聖人を論ぜず、仏祖のをしへにより、宗匠の道をおふて、坐禅辨道すべしとすすむ。

きかずや祖師のいはく、「修証はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ。」又いはく、「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。」

 

とうていはく、「あるがいはく、仏法には、即心是仏(ソクシン ゼブツ)のむねを了達(リョウタツ)しぬるがごときは、くちに経典を誦(ジュ)せず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし。ただ仏法はもとより自己にありとしる、これを得道の全円(ゼンエン)とす。このほかさらに他人にむかひてもとむべきにあらず、いはんや坐禅辨道(ザゼン ベンドウ)をわづらはしくせんや。」

しめしていはく、「このことば、もともはかなし。もしなんぢがいふごとくならば、こころあらんもの、たれかこのむねををしへんに、しることなからん。

しるべし、仏法は、まさに自他の見(ケン)をやめて学するなり。もし自己即仏としるをもて得道とせば、釈尊(シャクソン)むかし化道(ケドウ)にわづらはじ。しばらく古徳の妙則をもてこれを証すべし。

むかし、則公監院(ソッコウ カンニン)といふ僧、法眼禅師(ホウゲン ゼンジ)の会中(エチュウ)にありしに、法眼禅師とうていはく、

「則監寺(ソク カンス)、なんぢわが会(エ)にありていくばくのときぞ。」

則公がいはく、「われ師の会にはんべりて、すでに三年をへたり。」

禅師のいはく、「なんぢはこれ後生(ゴショウ)なり、なんぞつねにわれに仏法をとはざる。」

則公がいはく、「それがし、和尚をあざむくべからず。かつて青峰禅師(セイホウ ゼンジ)のところにありしとき、仏法におきて安楽のところを了達せり。」

禅師のいはく、「なんぢいかなることばによりてか、いることをえし。」

則公がいはく、「それがし、かつて青峰にとひき、いかなるかこれ学人(ガクニン)の自己なる。青峰のいはく、丙丁童子来求火(ビョウジョウ ドウジ ライグカ)。」

法眼のいはく、「よきことばなり。ただし、おそらくはなんぢ会せざらんことを。」

則公がいはく、「丙丁(ビョウジョウ)は火に属す。火をもてさらに火をもとむ、自己をもて自己をもとむるににたりと会せり。」

禅師のいはく、「まことにしりぬ、なんぢ会せざりけり。仏法もしかくのごとくならば、けふまでにつたはれじ。」

ここに則公、懆悶(ソウモン)してすなはちたちぬ。中路(チュウロ)にいたりておもひき、禅師はこれ天下の善知識(ゼンチシキ)、又五百人の大導師なり、わが非をいさむる、さだめて長処あらん。

禅師のみもとにかへりて、懺悔礼謝(サンゲ ライジャ)してとうていはく、「いかなるかこれ学人の自己なる。」

禅師のいはく、「丙丁童子来求火」と。則公、このことばのしたに、おほきに仏法をさとりき。

あきらかにしりぬ、自己即仏の領解(リョウゲ)をもて、仏法をしれりといふにはあらずといふことを。もし自己即仏の領解を仏法とせば、禅師さきのことばをもてみちびかじ、又しかのごとくいましむべからず。

ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禅辨道して、一知半解(イッチ ハンゲ)を心にとどむることなかれ。仏法の妙術、それむなしからじ。

『弁道話』

 

問て云く、破戒にして虚く人天の供養を受け、無道心にして、徒に如来の福分を費やさんより、在家人に随ふて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何ん。

答て云く、誰か云ひし破戒無道心なれと。只強て道心を発し佛法を行ずべきなり。いかに況や持戒破戒を論ぜず、初心後心を分かたず、齊しく如来の福分を与ふとは見へたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見へず。誰人か初めより道心ある。只かくの如く発し難きを發し、行じがたきを行ずれば、自然に增進するなり。人々皆な佛性あり。徒づらに卑下すること莫れ。

『随聞記1―16』

 

亦云く、道を得ることは心を以て得るか、身を以て得るか。教家等にも身心一如と云て、身を以て得るとは云へども、猶一如の故にと云ふ。しかあれば正く身の得ることはたしかならず。今我が家は身心ともに得るなり。其の中に心を以て佛法を計校する間は、萬劫千生得べからず。心を放下して知見解会を捨つる時得るなり。見色明心聞声悟道の如きも、猶を身の得るなり。然あれば心の念慮知見を一向に捨てて只管打坐すれば道は親しく得るなり。然あれば道を得ることは正しく身を以て得るなり。是に依りて坐を專らにすべしと覚へて勧むるなり。

『随聞記2-26』

 

示して云く、學道の人は吾我の爲に佛法を學することなかれ。只佛法の爲に佛法を學すべきなり。其の故實は我が身心を一物ものこざず放下して、佛法の大海に廻向すべきなり。其の後は一切の是非管ずることなく、我が心を存ずることなく、なし難く忍び難きことなりとも、佛法の爲につかはれて、しひて此れをなすべし。我が心に強てなしたきことなりとも、佛法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり。

『随聞記5―2』

 

書に云く、忠言逆耳、いふこヽろは我爲に忠有べきことばは必ず耳に違するなり。違するとも強ひて隨ひ行ぜば畢竟じて益有べきなり。

『随聞記5-13』

 

無道心の人も、一度二度こそつれなくとも、度度聞ぬれば、霧露の中に行が如く、いつぬるヽとも覺へざれども、自然に衣のうるほふが如くに、良人の言ばをいくたびも聞けば、自然にはづる心も起り、實の道心も起るなり。(古人云く、霧の中を行けば覚えざるに衣しめる、と。よき人に近づけば覚えざるによき人になるなり。)

『随聞記5―15』

 

示して云く、大慧禅師、ある時尻に腫物出ぬれば、医師此を見て大事の物なりと云ふ。慧の云く、大事の物ならば死ぬべきや否や。医師云く、ほとんどあやふかるべし。慧の云く、若し死ぬべくんば彌よ坐禅すべしと云て、猶を強て坐しければ、其の腫物うみつぶれて別の事なかりき。古人の心かくのごとし。

『随聞記5-16』

 

示して云く、大慧禅師の云く学道は須く人の千万貫の錢を債(お)ひけるが、一文をも持たざるに、乞責らるヽ時の心の如くすべし。若しこの心あれば、道を得ることやすしといへり。信心銘に云く、至道かたきことなし、唯だ揀択を嫌ふと。揀択の心だに放下しぬれば、直下に承當するなり。揀択の心を放下すると云は、我をはなるヽなり。佛道を行じて代りに利益を得ん為に、佛法を学すと思ふことなかれ。只佛法の為に佛法を修行すべきなり。縱ひ千経万論を学し得て、坐禅の床を坐破するとも、此の心なくんば佛祖の道を得べからず。只すべからく身心を放下して、佛法の中に置て他に随ひて旧見なければ、即ち直下に承當するなり。

『随聞記5-18』

 

學道の人も、初めより道心なくとも、只しひて佛道を好み學せば、終には實の道心も起るべきなり。

『随聞記6-7』

 

今生に發心せずんば何の時を待てか行道すべきや。今強て修せば必ずしも道を得べきなり。

『随聞記6-16』

 

自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷(メイチュウ ウメイ)の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。・・・

佛道をならふといふは、自己をならふ也。

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。

萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。・・・

人の悟りをうる、水につきのやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。

正法眼蔵・現成公案

 

おろかなる 我は仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身なれば

 

証(会)   悟      覚    道(菩提)  見性(成仏)

Satori  Enlightenment  Awakening  Realization  Manifestation

 

尋牛(じんぎゅう) 見跡(けんせき) 見牛(けんぎゅう) 得牛(とくぎゅう) 

牧牛(ぼくぎゅう) 騎牛帰家(きぎゅうきか) 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう) 返本還源(へんぽんかんげん) 入鄽垂手(にってんすいしゅ)

 

我れ、今、独り自ら往(ゆ)く、処々に渠(かれ)に逢うことを得たり。

渠、今、正に是れ我れ。我れ、今、是れ渠にあらず。   

洞山良价『過水の偈』

 

汝これ渠にあらず、渠まさにこれ汝。

『宝鏡三昧』

 

生来の自分から、本当の自己を見れば、これは誓願として現れる。ところがこんどは反対に、本来の自己から、生来の自分を見ると、生来の自分というのは、本当はこうあるべきなんだと言いながら、実はそれが実現していない。業という手カセ、足カセにはめられているから、本来の自己そのものをなかなか実現できないでいる。その限りそこに懺悔という面が必ずある、なければならない。この誓願と懺悔というのは本来の自己と生来の自己とのカネ合いのところに当然でてこなければならない。                          

内山興正『安泰寺へ残す言葉』

 

一 道心ありて名利をなげすてんひといるべし。いたづらにまことなからんものいるべからずあやまりていれりとも、かんがへていだすべし。しるべし道心ひそかにをこれば、名利たちどころに解するものなり。おほよそ大千界のなかに、正嫡の付屬まれなり。わがくにむかしよりいまこれを本源とせん。のちをあはれみて、いまをおもくすべし。

一 堂中の衆は乳水のごとくに和合して、たがひに道業を一興すべし。いまはしばらく賓主なりとも、のちにはながく佛祖なるべし。しかあればすなはち、おのおのともにあひがたきにあひて、をこなひがたきををこなふ、まことのおもひをわするることなかれ、これを佛祖の身心といふ。かならず佛祖となりとなる。すでに家をはなれ、里をはなれ、雲をたのみ、水をたのむ。身をたすけ、道をたすけむこと、この衆の恩は父母にもすぐるべし。父母はしばらく生死のなかの親なり、この衆はながく佛道のともにてあるべし。   

『重雲堂式』

 

佛道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人にしられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。おほかた、おろかにあしき人のことばを信ぜず、きかざるなり。また、わがこころをさきとせざれ、佛のとかせたまひたるのりをさきとすべし。よくよく道心あるべきやうを、よるひるつねにこころにかけて、この世にいかでかまことの菩提あらましと、ねがひいのるべし。

世のすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、世のはかなく、人のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。われは世のはかなきことをおもふと、しられざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、我がいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちもをしまざるべし。

つぎには、ふかく佛法僧三寶をうやまひたてまつるべし。・・・又、つねにけさをかけて坐禪すべし。袈裟は、第三生に得道する先蹤(せんしょう)あり。すでに三世の諸佛の衣なり、功徳はかるべからず。坐禪は三界の法にあらず、佛祖の法なり。       

正法眼蔵・道心』

 

『禪苑清規(ぜんねんしんぎ)』に云(いわ)く、「衆僧を供養するが故に典座有り」と。

古(いにしえ)より道心の師僧、発心の高士(こうし)充て来(きた)の職なり。蓋(けだ)し一色の辨道の猶(ごと)きか。 若し道心無きは、徒(いたずら)に辛苦を労して畢竟(ひっきょう)益(えき)無し。…

先來(せんらい)云う、「典座は絆(ばん)を以て道心と爲す」と。…

所謂喜心とは、喜悦の心なり。想ふべし我れ若し天上に生れば、樂に著め間(ひま)無く、發心すべからず。修行未だ便(べん)ならず。何かに況や三寶供養の食を作るべけんや。…

所謂(いわゆる)老心とは、父母の心なり。譬(たと)へば父母の一子を念ふが若(ごと)し。三寶を存念すること、一子を念ふが如くせよ。

貧者窮者(ぐうしゃ)、強(あながち)に一子を愛育す。其の志如何ん。外人識らず。父と作り母と作て方(まさ)に之を識る。…

所謂(いわうゆる)大心とは、其の心を大山(だいせん)にし、其の心を大海にす。偏(へん)無く黨(とう)無き心なり。…春聲(しゅんせい)に引か被(れ)て、春澤(しゅんたく)に游(あそ)ばず。秋色を見ると雖も、更に秋心無し。四運(しうん)を一景(いっけ)に竸ひ、銖兩(しゅりょう)を一目に視る。           『典座教訓』

 

釈迦牟尼仏言(のたまわ)く、明星出現時(みょうじょうしゅつげんじ)、我与大地有情(がよだいちうじよう)、同時成道(どうじじょうどう)。しかあれば、発心修行(ほっしんしゅぎょう)、菩提涅槃(ぼだいねはん)は、同時の発心修行、菩提涅槃なるべし。仏道の身心は草木瓦礫(そうもくがりやく)なり、風雨水火なり。これをめぐらして仏道ならしむる、すなはち発心なり、虚空を撮得(さって)して造塔造仏すべし。渓水を掬啗(ききょう)して造仏造塔すべし。これ発阿耨多羅三藐三菩提なり。一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。

しかあるに、発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。千億発(せんおくほつ)の発心は、さだめて一発心の発なり。千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり、修證轉法もまたかくのごとし。草木等にあらずはいかでか身心あらん、身心にあらずはいかでか草木あらん、草木にあらずは草木あらざるがゆゑにかくのごとし。

坐禪辨道これ發菩提心なり。發心は一異にあらず、坐禪は一異にあらず、再三にあらず、處分にあらず。頭頭みなかくのごとく參究すべし。    

正法眼蔵・発無上心』

 

佛祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して斷絶せず、發心、修行、菩提、涅槃、しばらくの間隙(かんげき)あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強爲(ごううい)にあらず、他の強爲にあらず、不曾染汚(ふぞうぜんな)の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。                     『正法眼蔵・行持』

 

おほよそ、心三種あり。一つには質多心(しったしん)、此の方に慮知心と称す。

二つには汗栗多心(かりたしん)、此の方に草木心と称す。

三つには矣栗多心(いりたしん)、此の方に積聚精要心(しゃくじゅうせいよう)と称す。

このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。…この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。

菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり…

この発菩提心、おほくは南閻浮(なねんぶ)の人身に発心すべきなり。八難処等にも、すこしきはあり、おほからず。菩提心をおこしてのち三阿僧祇劫、一百大劫修行す。あるいは無量劫おこなひて、ほとけになる。あるいは無量劫おこなひて、衆生をさきにわたして、みづからはつひにほとけにならず、ただし衆生をわたし、衆生を利益するもあり。菩薩の意楽(いぎょう)にしたがふ。

おほよそ菩提心は、いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導せましと、ひまなく三業にいとなむなり。いたづらに世間の欲楽をあたふるを、利益衆生とするにはあらず…

衆生を利益すといふは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり。

正法眼蔵・発菩提心

 

ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。

仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。             

正法眼蔵・生死』