坐禅&勉強会『普勧坐禅儀』(1)

『普勧坐禅儀・流布本』

原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。

夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらんや。尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿(もも)の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の腿(もも)を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。

所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり。公案現成(こうあんげんじょう)、籮籠(らろう)未だ到らず。若(も)し此の意を得ば、龍の水を得たるが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。當(まさ)に知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)先づ撲落(ぼくらく)することを。若し坐より起(た)たば、徐々として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。嘗て観る、超凡越聖(ちょうぼんおつしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、此の力に一任することを。況んや復た指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀たるべし。那(なん)ぞ知見の前(さき)の軌則(きそく)に非ざる者ならんや。然(しか)れば則ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶこと莫(な)かれ。専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是れ辦道なり。修証(しゅしょう)は自(おの)づから染汙(せんな)せず、趣向更に是れ平常(びょうじょう)なる者なり。

凡(およ)そ夫れ、自界他方、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印(ぶつちん)を持(じ)し、一(もっぱ)ら宗風(しゅうふう)を擅(ほしいまま)にす。唯、打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂ふと雖も、祗管(しかん)に参禅辦道すべし。何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す。既に人身(にんしん)の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ること莫(な)かれ。仏道の要機を保任(ほにん)す、誰(たれ)か浪(みだ)り石火を楽しまん。加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。冀(こいねが)はくは其れ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習つて、真龍を怪しむこと勿(なか)れ。直指(じきし)端的の道(どう)に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏々(ぶつぶつ)の菩提に合沓(がっとう)し、祖々の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為さば、須(すべか)らく是れ恁麼なるべし。宝蔵自(おのずか)ら開けて、受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。

 

普勸坐禪儀  入宋傳法沙門道元撰 

原夫道本圓通。爭假修證。宗乘自在。何費功夫。況乎全體逈出塵埃。孰信拂拭手段。大都不離當處。豈用修行之脚頭。然而毫釐有差天地懸隔。違順纔起紛然失心。須知歴劫輪迴還因擬議之一念。塵世迷道復由商量之無休。欲超向上之徹底。唯解直下之承當。直饒誇會豐悟。獲瞥地之智通。得道明心。擧衝天之志氣。雖有入頭之量。尚缺出身之路。

矧彼釋迦老子之爲生知。已在六年端坐之跡。達磨大師之傳心印。更貽九歳面壁之蹤。古聖既然。今人盍辨。所以ニ翻尋言逐語之鮮行。須迴光返照之退歩。自然身心脱落。本來面目現前。欲得恁麼。

急務坐禪。夫參禪者。靜室宜焉。飮飡節矣。乃放捨諸縁休息萬事。不思善惡。莫管是非。停心意識之運轉。止念想觀之測量。正坐之時。厚敷坐物。上用蒲團。然後結跏趺坐。或半跏趺坐。謂結跏趺坐。先以右足安左腿上。左足安右腿上。半跏趺坐。但以左足壓右腿矣。寛繋衣帶可令齊整。次右手安左足上。左掌安右掌上。以兩大拇指面相拄。乃正身端坐。不得左側右傾前躬後仰。要令耳與肩對鼻與臍對。舌掛上腭唇齒相著。目須常開。身相既定氣息亦調。念起即覺。覺之即失。久久忘縁自成一片。此坐禪之要術也。謂坐禪則大安樂法門也。

若得此意。自然四大輕安。精神爽利。正念分明。法味資神。寂然清樂。日用天眞也。已能發明。可謂。如龍得水。似虎靠山。當知。正念現前。昏散曷到。若從坐起。徐徐動身。安祥而起。不應卒暴。於一切時護持定力。參究之超上關無本可據證。放之被自礙。所以未留乃道之十成也。誠禪定一門最爲高勝。先以十分之會擧。次轉一半之證來。只在此法。拈花破顏禮拜得髓。皆承他之恩力而獲大自在者也。學般若菩薩。詎不隨順者乎。嘗觀。超凡越聖必假靜縁。坐脱立亡能任定力。況復指竿針鎚之轉機。拂拳棒喝之證契。未是思量分別之所能解也。

豈爲神通修證之所能知也。可爲聲色之外威儀。那非知見之前軌則者歟。然則不論上知下愚。莫簡利人鈍者。放下六根。見轉全道。不生一念坐斷十方。凡其自界他方佛法本無異法。西天東地祖門遂開五門。等持佛印。各檀宗風。唯務單傳。直指專事。翻身迴頭雖謂千差萬別。但喜歸程祥參。何忘却自家之坐床謾去來他國之塵境。若錯一歩。當面蹉過。既得人身之應會。莫虚度光陰。必憶佛道之當行。誰浪樂石火。加以形質如草露。運命似電光。倏忽便空。須臾即失。冀

其參學高流久習摸象勿怪眞龍。早向直指端的之正道。速成絶學無爲之眞人。

方遵百丈之規繩。遍通少林之消息。莫勞拂耳之風。更驚撃舌之響耶。但能正開自寶藏受用使如意。        普勸坐禪儀 天福元年中元日書于觀音導利院

正法眼蔵坐禅儀』

參禪は坐禪なり。坐禪は靜處よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石の うへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、晝夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。

諸縁を放捨し、萬事を休息すべし。善也不思量なり、惡也不思量なり。心意識にあらず、念想觀にあらず。作佛を圖する事なかれ、坐臥を脱落すべし。

飮食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禪をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禪のみなり。

坐禪のとき、袈裟をかくべし、蒲團をしくべし。蒲團は全跏にしくにはあらず、跏趺のなかばよりはうしろにしくなり。しかあれば、累足のしたは坐蓐にあたれり、脊骨のしたは蒲團にてあるなり。これ佛佛祖祖の坐禪のとき坐する法なり。

あるいは半跏趺坐し、あるいは結果趺坐す。結果趺坐は、みぎのあしをひだりのももの上におく。ひだりの足をみぎのもものうへにおく。あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。參差なることをえざれ。半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり。 衣衫を寛繋して齊整ならしむべし。右手を左足のうへにおく。左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひささふ。兩手かくのごとくして身にちかづけておくなり。ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほそに對しておくべし。

正身端坐すべし。ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と對し、鼻と臍と對すべし。舌は、かみの顎にかくべし。息は鼻より通ずべし。くちびる齒あひつくべし。目は開すべし、不張不微なるべし。かくのごとく身心をととのへて、欠氣一息あるべし。兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり。 坐禪は習禪にはあらず、大安樂の法門なり。不染汚の修證なり。

爾時寛元元年癸卯冬十一在越州吉田縣吉峰精舍示衆 

 

『禅苑清規(長蘆宗賾編)・坐禅儀』

夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無(へだてな)く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。坐禅せんと欲する時、閑静處(かんじょうしょ)に於いて厚く坐物を敷き、寛(ゆる)く衣帯を繋け、威儀をして齊整(せいせい)ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相拄(あいささ)え、徐徐として身を挙し、前後左右、反覆揺振(はんぷくようしん)して、乃ち身を正しうして端坐せよ。左に傾き右に側(そばだ)ち、前に躬まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂(ようせきずちょう)骨節をして相拄え、状(かたち)浮屠(ふと)の如くならしめよ。又た身を聳(そび)やかすこと太(はなは)だ過ぎて、人をして気急不安(ききゅうふあん)ならしむることを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対し、舌は上の顎(あぎと)を拄え、唇歯相著(しんしあいつけ)けしむることを要せよ。目は須らく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最勝なり。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向(さ)きの法雲円通禅師も亦た、人の目(まなこ)を閉(と)じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋(けだ)し深旨(じんし)あり、達者焉(これ)を知るべし。身相既に定まり、気息既に調い、然して後(のち)臍腹(さいふく)を寛放(かんほう)し、一切の善悪都て思量すること莫れ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり。窃(ひそ)かに謂うに坐禅は乃ち安楽の法門なり。而るに人多く疾を致すは、蓋し用心を善くせざるが故なり。若し善く此の意を得れば、則ち自然に四大軽安(しだいきょうあん)、精神爽利、正念分明にして、法味神を資け、寂然として清楽ならん。

若し已(すで)に発明(ほつみょう)すること有る者は、謂っつ可し龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たりと。若し未だ発明すること有らざる者は、亦た乃ち風に因って火を吹けば、力を用いること多からず。但だ肯心を辨ぜよ。必ず相賺(あいあざむ)かず。然るに而(しこ)うして道高ければ魔盛んにて、逆順万端なり。但だ能く正念現前すれば、一切留礙(るげ)すること能わず。楞厳経、天台の止観、圭峰の修証儀の如き、具(つぶさ)に魔事を明かす。預め不虞に備うる者の、知らずんばある可からず。

若し定を出でんと欲せば、徐徐として身を動かし、安詳として起ち、而も卒暴なることを得ざれ。出定の後も、一切時中、常に方便を作し、定力を護持すること嬰児を護するが如くせよ。即ち定力成じ易からん。夫れ禅定の一門は最も急務たり。若し安禅静慮ならずんば、這裏に到って総に須らく茫然たるべし。所以に珠を探るには、宜しく浪を静むべし。水を動かせば取ること應に難かるべし。定水澄静なれば、心珠自ら現ず。故に円覚経に云わく、無礙清浄の慧は、皆な禅定に依って生ずと。法華経に云わく、閑處に在って其の心を修摂し、安住不動なること須弥山の如しと。

是に知んぬ、凡を超え聖を越えることは必ず静縁を假り、坐脱立亡は須らく定力に憑るべし。一生取辨するも尚お蹉跎たらんことを恐る。況んや乃ち遷延せば、何を将てか業に敵せん。故に古人云わく、若し定力無くんば死門に甘伏し、目を掩って空しく帰り、宛然として流浪せんと。幸いに諸禅友、斯の文を三復せば、自利利他、同じく正覚を成ぜん。