先日から、ツイッターで清水将吾さんというお方と永井哲学の用語である〈私〉と「私」をめぐってのやり取りをはじめました。 最後には仏教の「無我」の教えにたどり着き、「もう少し説明を…」と言われたので、これから整理してみたいと思います。
このスレッドはいくつかに枝分かれしていますが、幹とでも呼べるものは以下の通りです。
もう一点、並行してご質問させてください:
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) May 4, 2020
「〈私〉が合理的な場合にフリーライダーになる」というような物言いを聞くとき、私がいつも「え?」となります。なぜなら、「〈私〉が・・・なる」とか「〈私〉が・・・する」と言ったとき、その〈私〉がすでに「私」であることを闇のうちに受け入れて…続
「悪党」の場合は、おっしゃるとおり、「私」たちによって成立している社会を理解して受け入れて前提し、そのうえで行為することになりそうですね。この場合は利己的なエゴイストの場合だと思います。〈私〉の場合はどうか、ご質問をもとにもう少し考えてからリプライいたします。
— 清水将吾🌟5/25 書籍発売! (@shogoinu) May 4, 2020
〈私〉の場合、「私」のうちの一人であることを一旦受け入れたうえで、そのあとで「私」に抹消記号を付けつつ決断することが可能だという実感を持っています。それが可能だとしたら、それが〈私〉(抹消記号付きの私)として決断するということだと思います。が、それがいかなる水準での決断なのか、
— 清水将吾🌟5/25 書籍発売! (@shogoinu) May 6, 2020
「抹消記号付きの私」の元ネタは、デリダでしょうか? 残念ながら、そのあたりを私は全然読んでいません。私の脳裏に浮かぶのは、仏教で言う「無我の働き」ですが、その「働き」も「無我の…」として意識した時点、果たして「無我の働き」と言えるかどうかが疑問です。(続)
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) May 6, 2020
どうもありがとうございます。「抹消記号付きの私」は、永井先生がデリダを元ネタとして言及しているものです。本当は私に抹消記号を付けた表記を使いたかったが、印刷上それができずに〈私〉という表記を使った、ということです。「私が無我になる」という点も参考になります。考え続けてみます。
— 清水将吾🌟5/25 書籍発売! (@shogoinu) May 6, 2020
「「私が無我になる」というような場合、その「無我」は無我でも何でもなく、「私」の延長線にある」という点、もう少しご説明いただけますか?
— 清水将吾🌟5/25 書籍発売! (@shogoinu) May 6, 2020
私が永井均先生の哲学を知った時、まず次のことを疑問に思いました:
「〈私〉はなぜ「私」なのか」という問いは、誰の問いなのか?
上の問いの〈私〉は「比類のない(=他者の存在しない)私」とも、「世界の開闢」とも、「無内包の現実性」とも表現され、永井均先生はこの〈私〉と仏教の「無我」を同じものとして解釈されているようです。この〈私〉には名前もなければ年齢も性別も国籍もないはずです。
一方の「私」はその他多くいる人間のうちの「この人」を指しています。この文章を今書いている私の場合は、その名前は「ネルケ無方」、現在の年齢は52才、男性でドイツ人です。
さて、上の問いをその他多くいる人間のうちの一人が口に出して、他者に向かって表現している以上、それは「私」の問いでなければなりません。しかし、「私」(=ネルケ無方)がネルケ無方であることに驚いたり、それを疑問視するはずはない。「ネルケ無方」という名前が届かない、比類のないこの〈私〉(=世界の開闢、無内包の現実性)がなぜか、世界の開闢でありながら「ネルケ無方」として世界内の出来事にも参加していることに、驚いているのです。
では、「私」であることに驚いて、この「私」だけでは説明できない自分の存在に気づいているのはだれか? それに気づくのと、気づかないことの差は? 気づいた以上、その気づきを表現し、「私」ではない〈私〉として行動する(=無為に生きる)ことは可能か?
そういう気づき自体が自己矛盾的かつ欺瞞的ではないのか、というのが私の疑問です。しかし、この気づきが本物でなければ、私の一生は何だったか?
仏教的な言い方をすれば、次の通りです。
仏教では「無我」を説きます。「我に実体がない」とか、「私を含むすべての現象は縁起によって成り立っているに過ぎない」「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です 云々」。
その「無我」を永井均先生のように〈私〉、つまり比類のない「これ」、世界の開闢として解釈するのは非常に面白いと思いますし、それで問題ないと思います。 ところが、仏教の世界ではやたら「(自分を捨てて)無我になる」「無我の境地を得る」と言います。
永井均先生ご自身も以前、つぎのようにつぶやいています:
しかし、無為に生きるのはなかなか難しいです。ついついこいつのやっているゲームにのめりこんでしまうので。
— 永井均 (@hitoshinagai1) June 1, 2016
私が2019年の11月にツイッター始めたのは、まさにこのツイートに答えるためでした:
これを発言しているのは誰なのか? 誰に向かっての発言なのか? 何のための発言なのか? これも新たなゲームなのではないか?https://t.co/sysHomaXHT
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) November 13, 2019
この問題意識は今も変わりません。
仏教の業界で言えば、問題はこうです。出家をし、坐禅をし、解脱を目指しているというのは、何を目指すことか? 誰が目指して、またやがてその解脱(無我、無為…)に到達としたも、その時何が変わり、誰が「到達した」と言えるのか。
「誰が」無我になるのか、誰がその境地を得るのか、という問題です。あるいは、「無我になるのではなく、最初から無我であった」とも言います。私がある時点で自分を捨てて、無我になるのではなく、最初から無我であったし、無我以外の何物でもそもそもあり得ないということです。
問題は、その「最初から無我であり、無我以外の何物でもそもそもあり得ない」ということに、だれが、いつ、どうやって気づくか、です。その無我であったことに気づくことは、なにが何に気づくことか。その気づきがあるのと、ないのと、何が違うのか?
仏教的に考えた場合、私たち人間の問題は「凡夫のゲーム」に参加したことから始まります。人生の意味を損得、勝ち負け、世間的な価値観やライバルとの比較で決めることです。坐禅など、仏教の実践はこの「凡夫のゲーム」を降りることから始まります。
「私」という一人のプレイヤーであることを受け入れなければ、「凡夫のゲーム」には参加できません。そのゲームにうつつを抜かしてしまえば、「私」でありながら〈私〉を生きていることを忘れてしまいます。ゲームをいったん降りることで、その〈私〉(無我)であったことを再確認できます。
繰り返しになりますが、その時の「再確認」は誰がするのか。それを誰に向かって主張し、承認してもらおうとするのか? そのそも「凡夫のゲーム」はいつから始まるのか?
14才あたりから「人生の意味は?」「私はなぜ私なんか?」などという「建設的ではない」といを諦めて、ゲームの中で役立つ問いへ舵を切るという妥協も「凡夫のゲームへの参加」ですが、2、3歳あたりから一人称や二人称が使えるようになって、相手が「ぼく」という言葉で自分自身を指していることを承認してしまい、親と自分が別人であり、自分は複数いる兄弟のうちの一人であることを認めてしまったことからすでに「凡夫のゲーム」が始まっているともいえると思います。
2、3歳児のその妥協と、中二の妥協の違いは? 今回の出発点であったツイッターのやり取りでは、「〈私〉がフリーライダーになる」という表現に、私は違和感を持ちました。それは「私が無我になる」と言ったときの違和感に似ています。つまり、〈私〉が何々になるとはどういうことか?
「私」がフリーライダーになり、それが今ここで現実であれば、「〈私〉がフリーライダーになっている」と言えなくもないですが、それは〈私〉がそう決断したからではないでしょう。無我の場合もどうよう、そもそもそれに「なる」ことはできず、最初からそうであっただけです。最初からそうであったにもかかわらず、「凡夫のゲーム」の中では「我」を主張したり、しなかったりします。場合によって、「凡夫のゲーム」の一環として、「無我になった」「無我の境地を得た」振りもします。「本来の自分に気づいた」「ゲームを降りた」「フリーライダーになった」云々もしかり。
では、〈私〉や「無我」という言葉は全く無意味であるかというと、もちろんそうではないはずです。そうではないと確信しているからこそ、仏教僧をやっているのです。しかし「仏教僧(=フリーライダー)をやっている」のも所詮ゲームの中の話で、〈私〉(無我)がそれを「やっている」わけではないでしょう。どういう訳か、ネルケ無方がそれをやっているに過ぎず、私はそれに驚くしかできない。