智源寺僧堂で「現成公案」講義(2)

仏教は宗教か?

 

神の存在を信じる          自己を唯一のよりどころとする

十字架による罪の贖い        瞑想における悟り

隣人愛               慈悲

 

宗教 「re-ligare(再び結びつける)」「relegare(追いやる)」

テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus, 160年? - 220年?)「不合理ゆえにわれ信ず」

シュライアマハー(Friedrich Schleiermacher1768年 - 1834年)「宗教の本質は知識や行為ではなく、絶対依存の感情であって、神、すなわち、無限に対するあこがれである」

マックス・ミュラー(Max Müller, 1823年 - 1900年)「宗教は無限を理解する心の能力である」

エミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858年 - 1917年)「宗教は道徳的共同社会に、これに帰依するすべての者を結合させる信念と行事である」

 

茶は心神を爽快にさせるが、陶酔はさせない。…【中略】…茶が広く仏教寺院に用ゐられやうになつたことも、是が日本に初めての紹介が禅僧に依つてといふことも、極めて当り前のことである。茶が仏教を象徴するならば、葡萄酒は基督教を代表する、と云へぬだらうか。葡萄酒は広く基督教に用ゐられる。教会では、基督の血を象徴するものとして、摂るが、その血なるものは基督教学者に従へば、罪業深き人類のために救世主によりて流されたものである。かういふ理由から、中世の修道院では酒窖(さかぐら)を持つてゐた。樽を囲み酒盃を把(にぎ)る彼等は、陽気に楽しげである。葡萄酒は初めはその飲手を浮々させ、やがては彼を酩酊させる。多くの点で、茶といい対照をなすが、このコントラストはやがて又仏教と基督教との間のそれでもある。」(鈴木大拙全集・第十一巻・九九ページ【旧字改めた】)

 

アーナンダよ、汝らは、自(みずか)らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とすることのないように。(『大パリニッバーナ経』第二章二十六、中村元 訳 『ブッダ最後の旅』 岩波書店

 

 「犀の角のようにただ独り歩め。」『スッタニパータ』(『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫


心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ…〈中略〉…

自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。―『マルコによる福音書

 

だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。…自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。―『ルカによる福音書

 

 

『現成公案

 

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸佛あり衆生あり。

 

At the time when you awaken to the way things really are, you will see that here is your delusion-awakening and here is your practice, here you are living and here you are dying; here you are, as an awakened one and as a suffering being.

 

(事々のありのままの姿に目覚めると、そこにあなたは自らの迷いと目覚めを見、また実践を見る。そこに、あなたの生があり、死がある。すなわち、目覚めた人として、苦しみの存在として、あなたはそこにおかれている。)

 

 

萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。

 

When the ten thousand things have no substance, you are no longer deluded nor awakened, neither an awakened one nor a suffering being, neither born nor perishing.

When the ten thousand things have no substance, there is no delusion or nor awakening, neither an awakened ones nor suffering beings, neither birth nor perishing.

When none of the ten thousand things is me or mine,I am no longer deluded or awakened, neither an awakened one nor a suffering being, neither am I born nor am I perishing.

 

(よろずの事が実体を持たないなら、あなたはもはや迷うことも目覚めることもない。目覚めたあなたも、苦しむあなたも、そこにいない。誕生もなければ、滅びもない。

よろずの事が実体を持たないなら、迷いもなければ目覚めることもない。目覚めた人々も、苦しむ者も、そこにいない。誕生もなければ、滅びもない。

よろずの事が私でもなければ、私の所有する物でもないこの時、私はもはや迷うことも目覚めることもない。目覚めた私も、苦しむ私も、ここにいない。誕生もなければ、滅びもない。)

 

佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。

 

Originally, the way of awakening transcends lack and abundance, and there is life-death, there is delusion-awakening, there are living buddhas.

 

(そもそも、目覚める道は欠落と豊富を超越するから、生死があり、迷いの目覚めがあり、生けるブッダがそこにある。)