ここで永井先生の口から「本質的な問い」と言ってもらえたことはすごくうれしかったが・・・
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
しかし、永井哲学を読んでいて、いつも思うのは次の疑問:
「本質=何々である」「実存=○がある」・・・したがって、実存は本質に先立つ。
ならば、「本質的な問い」は何だ!? https://t.co/in0MW67Z7l
本質は何々であるという「ナニ性」、したがって「実存(コレ性)は本質に先立つ」といわざるを得ない。ところが、もう一方では「もっとも本質的」という表現は当たり前のように誉め言葉として「もっとも根源的、すべての出発点」というような意味でも、まるでコレ性の同義語のようにも使われている?
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
2016年3月24日の「哲学的には(1)が最も本質的」という時の「本質的」と、同年4月2日の「キリスト教もヒンドゥー教も本質的には仏教である」という時のもう一方の「本質的」は、本質的にはおなじ意味の「本質的」なのか、どうか?https://t.co/in0MW67Z7lhttps://t.co/ejicvJXCmG
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
コノ問いは何の問い? ダレの問い?
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
同じように、次の瞬間についさっき「なんお前か」と驚いていていた自分を他者と見なして、「なんだお前が驚いているのか」という二重の驚きがある。これもつまらない。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
それ(→「なんだおれが喋っているのか、というつまらない気持ちになる」)がいえない理由は、その驚き(→「なぜ俺がしゃべっている… 驚いている… なぜ俺が、この問いを問うているのか」)がありえないからではない。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
累進構造でいえば、ワンランク下の自分ではないだろうか。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
他者とまったく同じ次元で、同じ公共の意味を持つ言語を話す「私」。
zoom会議室で他者と問題なく横並びする「私」。https://t.co/7VxOCmYjYu
彼ら(zoom会議室の画面の上の「私」と、それに驚いた一瞬前の《私》と、それにさらに驚いている現在の〈私〉)もまた、累進構造のワンランク下に位置している。彼らの驚きもまた、最頂点の〈私〉の〈この驚き〉ではないのだ。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
いや、これは本当に最頂点といえるのか?
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
「おれが喋っていることは顔を見る前からわかっている」と、本当にいえるのか? それを分かっているのは誰か? その時、なにを分かっていることになる?https://t.co/A4IvYvSFCO
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
それなのに、この〈問い〉を俺が問うて、この〈わかり〉を俺がわかっている・・・ となぜ言える。ドッペルゲンガーもまたそう考え、そう言うだろう。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
「なんだお前が・・・」 ←それに驚いて、つまらない気持ちになっている自分に気づくと、その〈驚き〉も単なる「驚き」に成り下がってしまう。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
タウマゼインとはつまり、「なんだお前か・・・」というつまらない驚きではなく、「なぜか、この俺がまさに今・・・」という、どうしても「つまらない気持ち」にはさせてくれない(だから、夜もぐっすり眠らせてくれない)驚きのこと。https://t.co/dfsbLdV4V2
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
可能世界の中で、まさにこの今、私のドッペルゲンガーも全く同じことをつぶやいている。同じことが、なぜこんなに違うのか? この違いは何か? ネルケ無方二号もそれに驚いているのだろうけど、彼の驚き、彼の問いなどどうでもいい(と、まさにこの瞬間、これを読んでいるあなたにも思ってほしい!)
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
つまらないですか?
— 火童 (@kadoh108) July 28, 2020
ぼくはその「お前」を見つけたとき、感謝がありました。
だって、ずっと待っていてくれたんですよ。気づくまで。(誰が気づいたのかは定かでないが)
というか正直すまんかった、ずっとぼくがしゃべってるものだとばかり思ってた。
— 火童 (@kadoh108) July 28, 2020
タウマゼインに使っているのは解脱した阿羅漢。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
逆タウマゼインからの「すまなかった・・・」という方向転換が大乗の発菩提心?
こういう「逆タウマゼイン」もあるよね。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
「なぜか俺が・・・!」という順タウマゼインがつまらなくなり、つまらなかった「なんだお前か・・・」に懺悔・感謝・帰依したくなる時。
タウマゼインに浸かっているのが阿羅漢の解脱。
逆タウマゼインからの「すまなかった・・・」が大乗の発心・修行…? https://t.co/PSGYU0Vnfx
・・・順と逆が一つの道環としてつながる。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
天上天下唯我独尊」が順タウマゼイン←これはその通りだと思います。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
「明星出現の時、我と大地有情と同時成道」は逆タウマゼイン←それよりも、「自未得度先度他」ではないでしょうか?
前者は「色即是空」「順修行」に対応し、純粋なヨコ問題といえる。後者は「空即是色」「逆修行」に対応している。
『生死』の巻で言えば「…仏の家に投げ入れて、仏の方より…」は修行から菩提につながる順タウマゼイン。ある意味で謎の最後の「たやすきみちあり…悪をつくらず…一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ…」は涅槃から生まれる新たな発心、すなわち逆タウマゼインに…
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
…根ざしている「逆修行」。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
後者においては、ヨコ問題はやはりタテ化されますが、私はそれも必要だと思います。いわばヨコ問題の伝達のためのタテ化。私たちの議論も、永井先生の執筆活動も、その一環ではないでしょうか?
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) July 28, 2020
そのタテ化されたヨコ問題が再びヨコ化されると、道環がつながり、修行が菩提を現成させ、涅槃が新たな…
公案はナニ性ですから、それがひっくり返ってコレ性の順発心となるということですかね。
— 雪観英治 (@Yumihiki2010) July 28, 2020
法輪を逆に転ずることも大切なんですねえ。
— 雪観英治 (@Yumihiki2010) July 28, 2020
ただ、逆タウマゼインに根差した修行(菩薩行)は、安易な道徳観や規範という縦問題に誤解され頽落する恐れがいつも付きまといますね。
そのとおりですねー。
— 雪観英治 (@Yumihiki2010) July 28, 2020
なので、順逆のマクロ的視点とミクロ的視点を経ることがとてもとても大切なのでしょうね。
これが子どもが大人になるということの意味なのでしょうか。あるいは凡夫が阿羅漢になるとか、、、