『辨道話』を読む⑧

辨道話

(第三問)

…ただまさにしるべし、七佛の妙法は得道明心の宗匠(シウシヤウ)に、契心證會の學人あひしたがふて正傳すれば、的旨あらはれて禀持せらるるなり。文字習學の法師のしりおよぶべきにあらず。しかあればすなはちこの疑迷をやめて、正師のをしへにより、坐禪辨道して諸佛の自受用三昧を證得すべし。

(第四問)

とふていはく、いまわが朝につたはれるところの、法華宗、華嚴敎(宗)ともに大乘の究竟なり。いはんや眞言宗のごときは、毘廬遮那如來したしく金剛薩埵につたへて師資みだりならず。その談ずるむね卽心(身)是佛、是心(身)作佛といふて、多功の修行をふることなく、一座に五佛の正覺をとなふ、佛法の極妙といふべし。しかあるにいまいふところの修行、なにのすぐれたることあらば、かれらをさしおきてひとへにこれをすすむるや。

しめしていはく、しるべし佛家には敎の殊劣を對論することなく、法の淺深をえらばず。ただし修行の眞僞をしるべし。艸華山水にひかれて、佛道に流入することありき。土石沙礫をにぎりて、佛印を禀持することあり。いはんや廣大の文字は、萬象にあまりてなほゆたかなり。轉大法輪、また一塵にをさまれり。しかあればすなはち卽心(身)卽佛のことば、なほこれ水中の月なり。卽坐成佛(成道)のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直(眞)證菩提の修行をすすむるに、佛祖單傳の妙道をしめして、眞實道人とならしめんとなり。又佛法を傳授することは、かならず證契の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる學者をもてその導師とするにたらず。一盲の衆盲をひかんがごとし。いまこの佛祖正傳の門下には、みな得道證契の哲匠をうやまひて、佛法を住持せしむ。かるがゆゑに冥陽の神道もきたり歸依し、證果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさずけずといふことなし。餘門にいまだきかざるところなり。ただ佛弟子は佛法をならふべし。又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず。とこしなへに受用すといへども、承當することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふ(おもふ)によりて、大道いたずらに蹉過す。この知見によりて、空華まちまちなり。あるひは十二輪轉、二十五有の境界とおもひ、三乘五乘有佛無佛の見つくることなし、この知見をならふて佛法修行の正道とおもふべからず。しかあるをいまはまさしく佛印によりて、萬事を放下し、一向に坐禪するとき、迷悟情量のほとりをこえて凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌罤(センテイ)にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。