典座教訓⑥

典座教訓

三更さんこう以前に明曉の事を管し、三更以來に做粥きしゅくの事を管す。

當日、粥了りて、鍋を洗ひ飯を蒸し羮こうを調ふ。齋米を浸すが如きは、典座、水架の邊を離るること莫れ。

明眼に親しく見て、一粒を費さず、如法に洮汰し、鍋に納れ火を燒き飯を蒸す。古いにしえに云く、「飯を蒸す鍋頭かとうを自頭じとうとなし、米を淘りて水は是れ身命と知る」と。

蒸し了りたる飯は便ち飯籮裏はんらりに收め、乃すなわち飯桶に收め、擡槃だいばんの上に安ず。菜羮等を調辨すは、應に飯を蒸す時節に當るべし。典座、親しく飯羮の調辨の處在を見、或は行者を使ひ、或は奴子ぬすを使ひ、或は火客こかを使ひ、什物じゅうもつを調へしむ。近來の大寺院には飯頭、羮頭有り。然れども是れ典座の使ふ所なり。古き時は飯頭、羮頭等無く、典座が一管す。

凡そ物色を調辨するに、凡眼を以て觀る莫れ、凡情を以て念おもふ莫れ。一莖艸いっきょうそうを拈じて、寶王刹ほうおうせつを建て、一微塵に入て大法輪を轉ず。所謂、縱ひ莆菜羮ふさいこうを作る時も、嫌厭輕忽けんえんきょうこつの心を生ずべからず。縱ひ頭乳羮づにゅうこうを作る時も喜躍歡悦きやくかんえつの心を生ずべからず。既に耽著たんじゃく無し、何ぞ惡意おい有らん。然あれば則ち、麤に向ふと雖も全く怠慢無く、細に逢ふと雖も彌よ精進有るべし。切に物を遂ふて、心を變ずること莫れ。人に順ひて詞ことばを改むるは、是れ道人に非ず。

志を勵まして至心ならば、庶幾こひねがわくは浄潔なること古人に勝り、審細なること先老を超えん。

其の運心道用の體ていは、古先、縱ひ三錢を得て莆菜羮を作るも、今吾れ同じく三錢を得て頭乳羮づにゅうこうを作らん。此の事、爲し難し。所以は何ん。今古殊異にして天地懸隔す。豈に肩を齊しくし得んや。然あれども審細に辨肯する時、古先を下視あしする理、定んで之れ有り。

此の理、必然ならば猶ほ未だ明了ならず、卒に思議紛飛して、其の野馬の如く、情念奔馳ほんちして林猿りんえんに同じき由なり。若し彼の猿馬えんばをして、一旦、退歩返照せしめば、自然に打成一片ならん

 

身相既に定まり、氣息も亦調へ、念起らば即ち覺せよ、之を覺せば即ち失す、久々に縁を忘じ、自ら一片とならん、此坐禪の要術なり。(普勧坐禅儀・天福本)