水増しをしても、混ぜ物はするな

かの合水の乳なりとも、乳をもちゐん時は、この乳のほかにさらに乳なからんには、これをもちゐるべし。たとひ水と合せずとも、あぶらをもちゐるべからず、うるしをもちゐるべからず、さけをもちゐるべからず。
正法眼蔵・袈裟功徳)


 お袈裟の作り方、つけ方とお袈裟に対する心構えについて書かれている「袈裟功徳」という正法眼蔵の巻から、興味深い一節です。道元禅師はここで、仏法の伝道の話しをされています。皇太子が即位すれば、まぎれなく一人前の皇帝であると同じように、師
匠から弟子へ仏法が正しく伝われば、弟子は師匠と対等の立場になり、脈々の仏祖の伝道に、新たな一仏祖として加わるのです。

「正しく伝える」ということは、乳を水で薄めるようなことではなく、乳が100%、乳のままに一つの器から別の器へ移る、というような関係だと禅師がいいます。一人の師匠からたとえ百人、千人が教えを受けたとしても、教えそのものがそれで薄くなるということはありません。一人一人の弟子はみなそれぞれ、師匠の教えの100%をうけつがなければなりません。そのためには、教える側も100%の乳を提供するように気をつけなければなりませんし、教わる方は100%の乳以外のものを、何も求めてはいけないのです。ところが、現実には人の伝達能力にも限界があれば、理解力にも限界があります。表現力の豊かな師匠もいれば、口下手な師匠もいるでしょうし、賢い弟子もいればそうではないのもいます。100%を教えたつもりなのに、その1割しか飲み込んでもらえないときだってあります。
 それでもいい、と禅師はいっています。水と乳の混ざった乳しかないときは、それでもかまわないというのです。ただ、油を混ぜたり、酒を混ぜたり、ましてやウルシを混ぜたりしないように、と忠告されています。
 どうして、乳を水増ししてもよいというのでしょうか。それは、水増ししても、乳の味が本質的に変わらないからだと思います。もちろん、あれば100%の乳がのみたいですが、水増ししてもちゃんと乳の味がするし、それ以外の味はしないのです。勘の鋭い弟子なら、もとの味が分かるのです。「一を教えて、十が分かる」という妙応ですね。
 正法眼蔵の文脈の中では、「伝衣(でんえ)」、正しいお袈裟の伝え方の話です。お袈裟に「糞雑衣」と「福田衣」という二つの別名があります。昔のインドでは、修行僧たちはゴミ捨て場から尻拭い、あるいは生理用品として、あるいは屍を覆うために使われたボロを拾い、それをきれいに洗ってから千枚田のように丁寧に縫い合わせて着たそうです。それが「糞雑衣・福田衣」という言葉の由来です。俗世間でもっとも役に立たない、大事にされないものを拾い上げ、もっとも大事にし、この上ない高貴な生き方のために役に立たせようというのがその心だと思います。その伝統を引き継いでいる我々僧侶は、今はさすがに糞のついた布は使用しませんが、使い道のないハギレをたくさんたくさん、パッチワークのように縫い合わせた「糞雑衣・福田衣」は今日も大事にされています。お袈裟は、シンプルであること、飾り気のないこと、めだたないことがその基本です。そういうお袈裟を弟子が師匠から受け継ぐことがそのまま、仏法を受け継ぐことであるため、お袈裟を何よりも大事にします。毎朝、お袈裟を身にまとう前に、頭に載せて短い偈文を唱えます。

 「大哉解脱服(だいさいげだっぷく) 無相福田衣(むそうふくでんえ) 被奉如来教(ひぶにょらいきょう) 広度諸衆生(こうどしょしゅじょう)」
(「おおいなる自由の服装、この形のない福田衣。これを纏うということは、すなわち仏陀の教えを纏うことであり、その教えをたてまつることである。この教えで一切の悩める者が救われますように。」)
 釈尊の糞雑衣に比べれば、我々が今日が着ているお袈裟は水増しされていると言われても仕方ありません。しかし、それを一切衆生の再度のために身につけ、自分を投げ出して修行に励めば、お袈裟の味の本質に変わりはないはずです。しかし、実際にはどうでしょう。数百万円で販売されている、キンキラキンのお袈裟も仏具屋のカタログに載っています。誰よりも目立ちたくて、一番高級なお袈裟をまといたくて、多額のお布施を要求するお坊様の姿も・・・もはや水増しではなく、そこには金という「あぶら」、プライドという「さけ」と嫉妬という「うるし」がお袈裟に強烈な色づけと味付けを加えてしまいます。気づいていないのは、本人だけです。
 坐禅についても、同じことがいえます。正しい師匠に「坐禅して何になるか」と聞けば、決まって「坐禅しても、何もならない」という答えが返ってくるはずです。世間から見れば何もならないことこそ、ただすることが大事なのです。坐禅に色づけも味付けもしないということは、そういうことです。口が曲がっても、「坐禅したらいい効果があるよ」と私もいいません。「いい効果」という酒に酔ってしまい、やがては「オレは悟ったぞ」というウルシまでのんでしまう者が現れてくるからです。オウム真理教なんか、そのもっともたる例です。
 決して宗教界に限った話ではないような気がします。政界や経済界はもとより、教育界も、いわんやメディアも例外ではありません。いかに真実という乳を味付けし、加工し、時にはおいしそうなミルクシェイクに仕上げたり、時にはカックテルで酔わせてみたり、下手をすれば怒りという毒まで混ぜて人の心を操れるか、それだけを考えているのではないでしょうか。だます方もだます方なら、だまされる方もだまされる方です。だまされないためには、混じりけのない乳の味を識別できる能力を再獲得しなければなりません。