啐啄同時

 一般にもよく知られている禅語の中に 「啐啄同時」という言葉があります。
 卵の中からヒナが殻を破って生まれ出よう とする瞬間、内側のヒナのつつきと、外から それを手伝おうとしている親鳥のつつきが ぴったり合って、殻が破れて新しい生命が 誕生します。

 この表現は師匠と弟子の問答の仕方、 師弟の互いの働きが合致することに よって生死の大事が解決されるあり様 を示します。

 道元禅師はこの働きを「感応道交」と いう別の言葉でも表します。
 ところが、現実の師弟間ではどうでしょうか。師匠と弟子の 突っ込みの狙い、方向とタイミングが大分ずれていることも しばしばです。自分の生と死に対する疑問どころか、「おは ようございます」の返事すら返してくれない師匠から何が学 べるものか、と言って弟子が腹を立てて、自分の殻の中で 悶々としています。一方師匠は鍵を回しても弟子のエンジン はかからないと言い、エンジンがかかっても、アクセルを踏 めば、ぶっぶっぶっと、すぐまた止まってしまいます。ようや く弟子が走り出したかと思えば、師匠がハンドルを右に切っ たら弟子は左へ、左へ切ったら右へとっ走ります。 ブレーキは踏んでみたが、キカナイ・・・

 大事故につながらなくても、 朝になって車が消えていたり、 乗り捨てされていたりします。 あるいは、弟子と師匠が互い に我慢し続けていても、弟子 が師匠の「靴の底に付いた チューインガム」に過ぎないかも。

 「啐啄同時」、「感応道交」とは言っ ても、現実においては所詮、凡夫 同士の引っ張り合い、傷つけあい。 そこにお互い凡夫をやめて、真実 を語り合う「感応道交」という大事な 瞬間もありますが、いつもそう上手 くいかないのは、師弟間だけでは なく、人間社会の常ではないでしょ うか。

 格外の志気を持って、弟子は不完全なる師匠に完全なツキ カタをしなければなりません。師匠は、上手な彫師がまがった 木をも傑作に作り上げるように、弟子の成長の全責任を負わな ければなりません。師匠は弟子を育て、弟子は師匠を育てな ければなりませんが、これは凡夫同士の相談ではありません。
 私は今、もう一度「正師は坐禅なり」という一句を 噛みしめながら、師弟間の本当のあり方を学びたいと思います。

流転⑤(2001年12月15日)